こうと思うとこういう面しか見えなくなる。
こうと思うとこういう面しか聞こえなくなる。
そして自分の中でこうという信念を強めていき、更にこうと思うようになる。
自分も含め人は、その思い込みからなかなか自由になれない生き物なのかも知れません。
もしその思い込みがその人を害するようなものであるならば、
誰かが「そんなことはない」というメッセージを
言語的、非言語的に送ってあげなければならないと思うのです。
今とは違う前提で向き合ってくれる他者が、その人を囚われから引き戻してくれる。
私はそう考えます。
=見たいものしか見ていない=
確証バイアスという言葉があります。
例えば血液型が人の性格に影響を及ぼすと信じている人がいるとします。(実際に血液型が性格に影響を及ぼすという科学的根拠はないそうです)
A型は几帳面、B型は独創的、O型はおおらか、AB型は二面性などと言われることがあります。
それを強く信じている人が、A型の人と接すると、几帳面さを過大評価し、例えその人におおらかな一面があったとしてもそれを過少評価する傾向があるのです。
一度こうと思うと、その信念を強める情報しかインプットされなくなってしまう。
人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。
それが確証バイアスという言葉が教えるところです。
この子は問題のある子という前提を抱いた大人が、確証バイアスに支配されて、その子の中にさらに問題を見出すようになっていく。
自分はこういう人間だという自己認識。
そういう自分に対する認識がまだ未確立な子どもにとって、周りの大人が自分に持つ前提が、その子の自己認識に大きな影響を与える。
そして自分自身に問題児というレッテルを貼り、大人と同様確証バイアスによってその自己認識をより強固なものにしてしまう。
そういうことがあるのではないかと私は考えます。
人はどう扱われたかによって自分自身を規定し、またどう扱われるかによって自分自身を変えていける生き物なのだと感じます。
自分が自分に対してどんな認識を抱いているか。
自分を俯瞰する視点を持つことができない子どもにとって、それに気づくことは難しいことだと思います。
一望俯瞰できる視野の広さ、視点の高さをもった大人が、その子の抱く自己認識に気づき、
「お前はそんな人間じゃない、素晴らしい才能と可能性を持った人間なんだ」
というメッセージを言語的、非言語的に送り続けることで、子どもたちは自分自身に対して抱え込んだ前提を上書きできるのではないでしょうか?
問題児を問題児たらしめるもの。
それはその子に接する大人が抱く問題児という前提なのかもしれません。
そしてその子に必要なのは、今とは違う前提で向き合ってくれる他者、自分の可能性を信じてくれる他者なのだと感じます。
次回に続きます。