人と同じふるまいが上手に出来ない。
みんながやっていることなのに出来ない。
自分の子どもの頃を振り返れば、そんなことが山ほどあります。
それでも今こうして大人になって、世の中で役割を頂いて生きています。
振り返ればいつも寄り添い分かろうとしてくれる誰かがいたからだと思います。
人は分かってもらえたから嬉しいのではなく、分かろうとして貰えたから嬉しいのではないでしょうか。
=分かろうとしてくれる人の存在=
不登校にはならなかったけれど、学校の中に上手に居場所を見出せず苦しかった高校時代の私。
それでも世間一般の価値観から離れたところで仕事をする先生たちの姿に、こんな自分であってもいいのではないか、そんな気持ちになることができました。
不登校に関して少しずつ少しずつ世間の理解も広がってはいます。
それでも学校に行けなくなった当事者の子どもたちは、自分自身を責めて苦しんでいることが多いと感じます。
自分自身が学生時代に苦しかったこと、それでも今こうして世の中で役割をもらい生きていけていること。
私は自分自身の経験や今の自分の姿を通じて、世間一般の価値観の中で自分を責め苦しんでいる子どもたちの逃れの場になれたら。
そんな気持ちでこの仕事をしております。
みんなと同じでなければならないと思うと苦しくなるけれど、みんなと同じでなくてもよいのだと思えると、フッと肩の荷が軽くなる。
高校時代も含め、私にはそんな経験が多々あります。
自分が自分であることが許される場、ありのままの自分を受け止めてくれる人の存在。
そういうものが人の心を軽くしてくれるのではないでしょか?
私よりも、学校の先生よりも、子どもにとって身近な存在の大人、それは親御さんです。
不登校の子どもたちと接していて思うこと、みんながみんなではありませんが、自分を省みる視点を持ち、感受性豊かな子どもが多いと感じます。
その才能故に違和感を抱き、苦しくなることも多いのではないでしょうか。
高校時代に自分に理解を示してくれる恩師と出会いその才能を開花させていった忌野清志郎さんのように、
親御さんがよき理解者となることで、お子さんは自分自身と責めることなく、その才能を大きく広げていくことができるのではないでしょうか。
人が人を分かりきることなど、簡単にはできるものではありません。
ただ分かりきれなくとも、分かろうとし続けることはできると思うのです。
人は誰かに分かってもらったからうれしいのではなく、分かろうとしてもらえたことがうれしいのではないでしょうか。
学校に行けないお子さんの姿にあれこれ言いたくなるお気持ちはあるかと思います。
でも一度、その言葉をわきに置いて、どうぞお子さんの言葉に耳を傾けてみてください。分かろうとしてあげてください。
自分を分かろうとしてくれる誰かの言葉であればこそ、人はその人の言葉をわかろうとする。
そういうものではないでしょうか。