前回、前々回と、原因論の立場で語られる「過去」とは客観的事実ではなく主観に基づいて編集される物語のようなもの。
そういう側面もあるのでは、と綴ってきました。
否定的意味づけをした「過去」を、自分に繰り返し語り聞かせ続けることで、現状の自分に対する認識が悪化し、その結果また過去に悪い意味づけを施してしまう。
そんな負のループに陥らないためにも、現状の自分に対する客観的視点を得る必要があります。
自分の認知の仕方に対する認知をメタ認知といいますが、メタ認知するためにはどうしたらいいのか。
私は、話が聴ける人に聴いてもらうことをオススメします。
=聴いてもらうことの意味=
自分が一体どのような認知の癖があるのか、思考の癖があるのか、自分自身では気づくのはなかなか難しいものです。
自分の過去について悪い意味づけをしてしまうのは、現状の自分に対して悪い意味づけをしているから、と述べてきました。
しかし自分が自分に不必要に悪い意味づけばかりを施していることにさえ、自分の力ではなかなか気付けないものなのです。
そこで、自分に対する客観的視点を得るためにオススメなのが話を聴ける人に聴いてもらう、ということです。
話を聴ける人とはどんな人だと思いますか?
的確なアドバイスを出来る人でしょうか?
確かにそれも大切なことだとは思いますが、まずはその人の話に丁寧に耳を傾けられる人です。
以前ブログで傾聴について綴りましたが、その三大原則、頷き、おうむ返し、沈黙で見守る、このことを理解している人。
それが私が思う話が聴ける人です。
「子どもが話してくれないんです、、、」
https://free-school-shibata.blogspot.jp/2017/06/blog-post_24.html?m=1
話が聴ける人に、自分を映す鏡になって聴き続けてもらうことで、自分が自分に不当に課していた悪い意味づけを客観視出来るようになります。
その結果、どんどん自分のイメージを悪くする負のループから抜け出せるようになっていくと私は考えます。
=新しい意味づけを得る=
誰かに話を聴いてもらえることで、自分が自分に抱いていた否定的意味づけに気づけると書いてきました。
聴いてもらうことの効用はそれだけではありません。
他者に話を聴いてもらうことで、否定的意味づけに代わる新しい意味づけを手にすることができます。
「過去」とは、現在の自分自身に対する認識を正当化するために意味づけを施された物語のようなものと述べてきましたが、
自分自身に対する否定的意味づけに気づき、その呪縛から自由になることで現在の自分自身に対する認識の仕方が少しづつ良いものに変化していきます。
現状の自分に対する認識が良いものに変化していけば、自分自身の過去に対する認識の仕方も変わってきます。
新しく肯定的意味づけをされた「過去」という物語が出来上がることで、その新しい物語を自分の拠り所として生きていけるようになる。
これも話を聴ける他者に聴いてもらうことで得られる、効用だと感じます。
=子どもたちが望むもの=
以前にもブログに書いたかもしれませんが、私の両親は共働きで、父も母も大変に忙しい人たちでした。
私自身上手に高校に馴染むことができず、つらい気持ちを抱えてもいたのですが、仕事から疲れて帰ってきた両親を見ているとそんな話はとても出来ませんでした。
自身のつらい気持ちを押し込めて、家の雰囲気が少しでも明るくなるようにと、わざとお道化て見せたり。
これも恣意的に作り出された「過去」なのかもしれませんが、私にはそんな記憶があります。
そういう自分の経験からも、子どもたちが望むもの、それは親御さんの笑顔なのではないか、と私は考えるのです。
そうであるならば、原因論にとらわれて自分が作り出した否定的「過去」でご自身をせめること、苦しめること。
それはお子さんの望みとは対極にあるものではないでしょうか?
もし今、ご自身の今までに否定的な意味づけをされ苦しんでいらっしゃるならば、どうぞそんなにご自分を責めないでください。
子どもたちが望むもの、それは大好きな親御さんの笑顔なのですから。
予定ではアドラー心理学の用語である「課題の分離」について記すつもりだったのですが、原因論にとらわれて苦しい気持ちになっている方にどうしても伝えたいとの思いから、少し寄り道をすることに致しました。
次回は予定通り「課題の分離」という概念について紹介し、子どもを自立させるとはどういうことかを考えてみたいと思います。