美食家、グルマン、最近ではフーディー?

予約困難店なるものに群がる日本人気質とは?

フランスでも生活をしてきたことがある僕の感覚では、

高級レストランや有名レストランは存在するものの、

予約困難レストランって無いような気がする。

 

日本では僕の知る限り、

いつでも素晴らしく美味しい料理を提供してるレストランは多々ある。

もちろん有名であり、一世を風靡したこともある。

そういう名店は熟成され、芳醇なワインのごとくの風情を見せる。

だが、予約はすぐ取れる。

一方で、器なのか実験器具なのかよくわからない物に、

味わうにはひどく鋭敏な舌を持たないと難しい量の食材を乗せ、

なんだかお弁当の醬油さしのような物にソースが入ってたり、

挙句の果てに美味しくもない花を食べさせられる。

そんな店は予約困難レストランとして名を馳せる。

 

料理とは美味しいものを指します。

 

日本では味よりも、希少性、奇抜さ、予約困難が尊重されるらしい。

味も美味しく、独創性も併せ持つ店もあるにはあります。

が、一般的には前記した希少性や奇抜さを押し出す店は、文化にはなり得ない。

名前を出すのは問題はあるけど、

素晴らしく美味しい料理を、常時提供してきた名店は、

その街に馴染み、文化としてのレストランの在り方を体現してる。

渋谷のあの名店、三田のあの料理、広尾のあのシェフ、

そう語られることが文化としてのレストランなんだと思う。

 

現在予約困難である状態のレストラン、希少性や奇抜さを謳うレストラン、

10年後にはほとんどが姿を消していることでしょう。

昔、グルマンという日本で初のフランス料理の格付け本がありました。

ミシュランに並ぶものを作ろうとした画期的な本でした。

もうはるか昔に無くなってしまいましたが、

その本で星の付いていたレストランはかなりの数が、

現在も同じようにその威光を放っています。素晴らしいことです。

そうあってほしいと願うばかりです。

 

ところで、どうして日本では予約困難とか、今時レストランみたいな店が生まれるのでしょう。

その背景には客層があると思っています。

フランスでそれなりのレストランに行くと、

そこにいる客達はその店を体現してる客ばかりです。

身なりのしっかりしたご夫婦、ビジネススーツを着こなした紳士達、

家族のお祝いなのか、和やかな笑顔で囲むテーブル。

素敵な風景となっています。

 

ところが、日本のそういうお店に行くと、

料理のウンチクと自意識バリバリの食べるプロを謳うような人達、

ブランドバッグを買ってもらってご機嫌の若い娘に、20か30は年上のおじさん。

港区満開のギラギラ男子と、それに付随したヤバい香りのおねーさん。

何ですかね?この客層。

でもこの客層こそが予約困難店を生み出すのです。

行ってないと話題についていけないとか、

あのお店に行きたーい!連れってってくれないと拗ねちゃうー、とか、

俺ならあの店予約できんぜ!えー!すごーい!

悲しいかな、そんな人達に支えられてることも事実です。

 

食事はカロリーを満たすためだけのものだと割り切ればそれも有り。

でもカロリーを満たすためだけではないことを目指した料理は絵画や良き音楽と同じ。

素晴らしい音楽や絵画は、僕らにはわからなくとも、

それを好きな人たちにはとんでもなく価値のあるもの。

僕に、抽象画の難解なものを見せられても、その価値は正確にはわからない。

素晴らしい演奏のマーラーの音楽を聴いても、寝るかもしれない。

 

それと同じようなものでさ、

料理の価値や尊さを理解し、尊重できる食べ手となりたい。

映えるか、映えないかで料理を論ずる愚かさや、

見栄っぱり達の自慢の場にレストランをしてはいけない。

 

名店となり得るお店は理念がある。

今ももちろん沢山のそうしたお店がある。

いつか日本の客層も熟成したワインのごとくの芳醇さを放ってほしい。