今日は21時過ぎまで残業。家に帰るとマロンのお骨が届けられていた。
おかえり。やっと戻ってこれたね。
まだまだ喪失感はぬぐい切れないけれど、残してくれたものの一つ一つを反芻して、自分の内で消化していこうと思う。皆様、ご心配おかけしました。
今日は一日中携帯をそばに置いておいた。でも電話はかからなかった。まだマロンは生きている。外猫にゃんも、私が夏に入院して戻ってきたときにはガリガリにやせて、生きているのが不思議なくらいひどい状態だったのに、持ち直して今はコロコロ丸くなって抱っこしろとせがむ。外猫だから免疫力が強かったのかもしれないが、そんな奇跡がマロンにもおこらないか、心のどこかで期待を捨てきれないでいる。
帰り道、妙に足元が明るい。見上げると大きな丸い月。あまりに月の光が強くて、いつもは闇の中でくっきりはっきり浮かぶ星が煙ってみえる。昔、ランプしかない東北の田舎の温泉宿に行ったとき、星降る夜というものがこの世に存在することを初めて知った。
今日は会社を早引きさせてもらい動物病院へ向かった。ケージの中のマロンは、もう形相が変わってしまい、体中で息をしていた。昨夜から状態が悪化し、明日まで保たないかもしれないという。延命がどうのこうのと悩む次元ではなく、マロンの命の期限はすぐ目の前に来ている。
30分ほどケージの前で獣医の説明を受け、その間マロンはケージの中に差し入れていた私の手の甲に頭をのっけていた。それが最期に感じたマロンの体温になるのかどうかはわからないけれど、もはや「死」は最も自然な事象であることは、私にも十分に受容できた。鼻の穴につまった粘着質の鼻水を爪の先で取って「おやすみ」と言って病院を後にした。
明日は部署のカラオケ忘年会。去年は骨折で欠席した。今年も欠席させてください・・・
今朝と帰りの電車で景山民夫の「遥かなる虎跡 」を一気に読んだ。スーパーウーマンと冷静で思慮深い男という2人の主人公に加え、ストーリーの緩急の要になる仲間の男とカーチェイスという図式は、前に読んだものと全く同じ設定である。勧善懲悪のエンターテイメントに近い早いテンポで展開するので、ストーリーを読むと同時に映像化されて、そのイメージを追うような感覚だった。
動物病院に電話すると、マロンは全身の機能がすっかり衰えてしまっていた。獣医さんが皮下注射を打つために皮膚を少し引っ張っただけでも破れてしまうらしい。ひとまずインターフェロンは中止、明日から免疫治療に変更するようだが、持ち直してほしいという気持ちとそんなのはもう気休めなんじゃないかという気持ちとの狭間で迷っている。苦しんでいる様子はないが、全身衰弱は 著しい。どうしたらいいのだろう・・・
今日は朝10時に動物病院に出向いた。自転車を金曜の夜に置いてきてしまったため、約2キロをテクテク歩く。1週間ぶりのマロンは全く躰に力がなく、ぼおっとして目もうつろだ。見えていないのかもしれない。私の声にも全く反応しない。インターフェロンを再開してみたが、それがいいのか悪いのかわからない。負担を与えているのは確かなのだから。ただ、腫瘍は少し小さくなった印象で、固くて芯があった丸い固まり自体、若干柔らかくなっていたような気がした。腸が動かずガスがたまっていたのも、とりあえず解消したとのことなので、あとは免疫力をとりもどして、食欲が回復することを待つばかり。
添付の写真の左がマロン、右が親猫くろりん。親子で走り回っていた頃は、リビングの革のソファは革がめくれあがってしまい、布をかぶせて防御していた。
年をとれば、失っていくものが増えていくのは当然の摂理としても、最近は失っていくものの形というか姿というか、なにかが自分の中から去っていく喪失感が著しい。だからこそ、友達や仲間たちの心遣いとこんな私に寄せてくれる想いが何よりありがたくて嬉しくて身にしみる。喪失感が大きいからこそ、大切にしたいものがより見えてくる。それこそが年をとった人間に与えられた神さまからの小さな表彰状なのかもしれない。
マロンの白血球数は検査機器の設定の上限を超え、測定不可能なほど上昇していた。同時に極度の貧血。この状態で生きているのが不思議だと言う。抗ガン剤も投与できないほど弱っているため、今日は抗生物質と輸液の点滴のみ。極度の脱水状態からはなんとか脱した様子。
朝、ぼぉっとしていて通勤用の本を持参することを忘れてしまったため、とりあえず駅のキオスクで真保裕一の文庫を買ったものの、人間が描けてない本はやはりつまらない。片道だけで上巻1冊を飛ばし読みしてしまった。明日は軽いものが読みたいと横の本棚をぱっと見たら、目に入ってきたのが中谷彰宏の「今したいことを、今しよう 」。こんな本あったっけ?と手にとって真ん中あたりを開いてみると「現実的なことしか話せない、つまらない人になるな」の大文字が。おおっ・・・現実からスタートしていく人は、可能性があるかないか、できるかできないかということを考えるが、自分の煩悩からスタートする人は、そのためにどうしたらいいかという発想をする。つまり、できることを前提としている。煩悩があるかないかで、これだけスタートから変わってくるということらしい。そして「どこへ行くか」を決めるのは、煩悩であるということ。なるほど。除夜の鐘を聞きながら、自分の煩悩を108つ書き出してみるのもいいかもしれない。

