私は『普通』『当たり前』『常識』『当然』といった単語は、慎重に使うように心掛けています。



地域、時代、世代、コミュニティ、人によって、その意味するところが全く違うので、安易に使うことは危険だと考えているからです。



例えば、今の私が『普通』と考えているスタイルのまま、厳格なイスラム教圏で生活したら相当浮き上がるでしょうし、逆もまた然りでしょう。



なので、そうしたフレーズを多用する相手は警戒します。二言目にはそれらの単語を使う人がいますが、往々にして「それってあなたの感想ですよね?」と問い質したくなるような、自分にとって都合のいい主張をゴリ押しするための箔付けとして、「他の人もみんな同じように考えている」を意味するこれらの単語を口にしているように思えるのです。



裏を返せば、そうした虎の威を借りないことには、自分の主張の正当性を説明できない、自信のなさの表れのようにも見えます。




実は亡き父がそういうタイプだったんですよね😅



私は昔から口の立つ娘だったので、「お父さんの言う『普通』とか『当たり前』はおかしいよっ💢」と真正面から反論しては衝突することも多かったです。



でも今になって振り返ってみると、〈父は戦時中に子供時代を過ごしたのだ〉という事実を、若い私は見落としていたのですね。



同調圧力の強い日本🇯🇵において、「他の人もみんなこうしている/こう考えている」は、かなり説得力が強いです。ましてや戦時下では、今の私たちには想像もつかないほどの強制力を持っていたのでしょう。



その圧力に押し潰される形で、子供時代の父はどれほどの我慢や忍耐を強いられたことでしょう。



「お父さんと一緒に生活したい」という正当な主張を「日本のために」という同調圧力で押さえつけられ、「お前の父親はお国のために命を捧げた英霊だ」と口では言いながら、実際には「父親のない子供だ」と蔑んでくる社会に対して、どれだけの不信感や怒りを内に秘めていたことか。




幼い自分には抗いようもなかった「当たり前」を、大人になってから我が子に押し付けてしまうのは無理からぬことだったのかもしれません。



自分がされて嫌だったことを愛する我が子にしてしまうのは不可解なことに見えますが、他のやり方を知らない以上、無意識に自分がされたことを繰り返してしまうのは致し方ないことなのかな、と思います。ロールモデルである父親を小さい時に喪ったわけですしね。




お父さん。



あなたが亡くなって10回目の父の日を迎え、ようやくあなたが陥っていた罠の仕組みに思いが至りました。



あなた自身には何の落ち度もなく、ただ他の方法を知らなかっただけなのだと、ようやく理解できました。



若い頃、あんなに突っかかってごめんね。

もっと早く、気づけば良かったよ。



私の息子が、父親である夫と一緒に生活できたのも、当たり前じゃなかったんだよね。