まびきました?

頭上の男が発した言葉を、ヒダリは頭の中でとっさに変換できなかった。

しばらく考えてそれが「間引きました」だと分かったが、男の返事の意味はよく分からないままだ。

 

「いったい……」

「間引いたんです。知ってるでしょ、間引き。家庭菜園とかでやる」

 

頭上の男の顔は相変わらず見えないが、その声は何かを期待してるようなそぶりなのは分かった。

 

「知ってるよ、それくらい。たくさん出た芽の中から育ちの悪いやつを摘み取るやつだろ?」

「そうです。よくご存知で」

 

「知ってるでしょ」と問いかけたのは向こうなのに「よくご存知で」という返答が来た時、ヒダリは「この人と会話をするのは疲れるな」と思った。同時に、今までも感じていた「話の通じない人」特有の怖さ、気持ち悪さ、底知れなさも手伝って心細い気分になった。

 

「それが何か関係あるのかよ。間引きましたって……」

 

その時、ヒダリはその言葉の意味と同時に、彼の行った行為の意味を理解した。

それを実行する理由は分からない。

それを実行する方法も分からない。

それが『あの人』だった意味も分からない。

 

薄暗い井戸と空の中、さっき感じた心細さが別の、身体中の臓器を掴まれるような感覚に変わっていく。

相変わらず頭上の男の表情は見えないが、ヒダリが思っている顔と大して違いはないだろう。

ヒダリは一番聞きたくない、だけども彼に聞かなければならない質問をした。

 

「あの人を、殺したんだな」

「せーかい」

 

自分が思っていたよりも何倍も軽薄な声が返ってきた。ヒダリは数秒押し黙った後立ち上がり

 

「なんでだ! どうして! いつ! どこで! どうやって! あの人を! 人生を! なにが! いつから!」

 

頭上に向けてありとあらゆる疑問符を叫び散らした。答えはもはや期待しておらず、ただただ自傷行為の際に流れ出る血のように、自然と、しかし無意味に発せられているに過ぎなかった。

 

「近所の人、来ちゃいますよ。そんな大声を出したら近所迷惑です。地域によっては条例で結構な罰食らいますよ? やめなさい」

 

『あの人』の仇、殺人犯、ひとごろし。そんな男に「近所迷惑」という最低限のモラルを注意されるほどみっともない姿を曝してもなお、ヒダリは喚くのをやめなかった。

 

「うるさいうるさいうるさいうるさい!」

「しょうがないなあ。あんまりこういう事したくないんですけど」

 

ダンッ。

 

井戸に、何かを突き刺すような音が響いた。立ち上がっていたヒダリは驚き、その拍子に尻をついた。

井戸の冷気を顔の一部だけ敏感に感じる。どうやら額をかすめて切ったらしい。

包丁でも落ちてきたのか。違う。細く、長い、錐のようなものが、ヒダリの目の前を真っ直ぐと貫いていた。

 

「これ、何かわかります? 多分当たんないと思いますけど。当たったらなんか良いものあげます」

「…………」

 

さっきまで騒いでいたのが嘘のように、ヒダリは押し黙っている。冷たいはずの井戸の中で、彼は砂漠の遭難者のように汗をかいていた。

 

「じゅー、きゅー、はーち、なーな、ろーく……」

 

頭上では、呑気な声のカウントダウンが始まっていた。声の鬱陶しさは最初に感じた「鼻につく」のレベルを超えて、もはや軽薄さに対して親しみすら覚えるレベルになっている。もっとも、どちらかが歩み寄ろうとする意思は全く感じられないが。

ヒダリは目の前を貫いているものをたどるようにして、もう一度見上げた。井戸の淵から、男の手が垂れ下がってるのが見えた。

 

「さーん、にー、いーち、ぜーろ。……はい、タイムアップです。答えは出ましたか?」

「……分からない」

「残念! それじゃあ答えでーす。答えはね……、中指」

 

中指?

中指って、あの中指か? 自分の手にもある、あの?

 

「そう、その中指です。僕の、中指」

 

頭上の男は、ヒダリの心を見透かしたかのように答えた。

 

「なんだそれ……」

「なんでしょうねえ。僕にもよくわかってないんですけど。なんか『転生者』って呼ばれるらしいです。僕みたいに何か使命を帯びた人が行き着く先ですって。あ、触るだけでも結構危ないですよ」

 

明らかに常人とは違う変化が身体に起きているのにその口ぶりはまるで他人事のようで、何か珍しい事象を観測している科学者のようだった。

 

「あなたにとっては『あの人』を奪った憎き凶器ってところですかね」

「これが……。なぜ……」

 

へたり込んだままのヒダリが、改めて疑問を口にした。

 

「他人にとってどう思われるかは知りませんが、僕にはそれをしなきゃいけない理由があるんです。世界で一番劣っている僕よりも劣る人は、間引かなきゃならない」

「劣ってる……?」

 

この男と『あの人』の何が劣っているのかはよく分からなかった上に、こんな男に貶されてしまった。ただ、ヒダリは男から発せられた「劣っている」という言葉に、今いる井戸よりももっと深い、覗き込んだらそのまま堕ちていってしまうような深淵を感じた。

 

「まあ、あまり苦痛のない最期だったと思いますよ。急所を一突きしましたし。そこは安心してください。僕は人が苦しむ姿をあまり見たくないですから」

「……殺すつもりか?」

「はい?」

「殺すつもりか!? 殺せよ! どうせ自殺するつもりだったんだ! さっさとやっちゃえよ! さあ!」

 

この男にはもう耐えられない。ヒダリは半ば自棄になった状態で、再び騒ぎ出した。

 

「まあまあ、落ち着いてください。今日は『間引き』はお休みだし、そもそも僕はあなたを間引こうと思ってここまで来たわけじゃないんで。あと、僕は自殺は嫌いです。それが手の込んだ方法なら尚更。もうちょっと効率よく出来るでしょう。首吊り、飛び降り、身近な毒物、色々ある。なぜこんな井戸なんかで死のうと思ったんです?」

 

相変わらず軽薄な声のままヒダリに問いかける。ヒダリにとって一番触れられたくない部分なのを、男は分かった上で問うているように聞こえた。

 涸れた井戸の底から、丸く切り取られた空を見上げる。不安を煮詰めたような曇り空は、今のヒダリの心情にぴったりの風景だった。

「登れなく、なっちゃったな」

 カナリアの囀りのように細い声が、深く、狭い井戸の中に反響する。そうして、苔むした井戸の壁に背中を預けて、溜息交じりに泥の中に座り込んだ。
 ぴちゃん、と水音が響く。その音が、また、ひとつ、ふたつ。そう言えば、今日は降水確率20%だったっけ。ヒダリは憂鬱そうに、顔を上げる。そして、それを、見た。

 顔の無い男だった。いや、きっと物理的に顔はあったのだろう。だが、ヒダリにとって、井戸を覗き込むその男の顔は翳っていて、まるで、始めから顔そのものが無いかのように見えた。

「あのー、そんなところで何してるんですかー」

 見た目と裏腹に少年のような声が井戸に響く。
 ヒダリは、その質問に億劫そうに答えた。

「何って……座ってるんだよ」
「風邪ひきますよ?」
「そんなこと心配する段階に見えるの?」
「ごもっともです。では、どうしてそんなところにいるのですか」

 ヒダリは何も返さない。答えない、という選択を受け入れたのか、男の言葉は追い打ちのように続く。

「“病気になりたい”だけならば、そんなところにいる必要ないでしょう。あなたがミュンヒハウゼン症候群だとして自傷行為に及びたいのなら、なにも井戸の底にいる必要はありません。お風呂で水のシャワーを浴びていれば、とても簡単に風邪をひけます。では、何故井戸の底にいるのか? 例えば、落とし物を取りに行ったのならば、棒や網で取れば良いでしょう。万一、井戸の底に降りる選択をしたとして、人間が命綱も無しに底に降りる必要はありません。また、事故で井戸に落ちてしまったとして、携帯で助けを呼んだり、大声を上げたりなどの選択肢はあるはずでしょう。ここから100mほど歩けば、民家もありますしね」

 単調な推理めいた演説を続ける男の声。鬱陶しい男だ。ヒダリは鼻白んで言葉を聞き流していた。やがて、男は沈黙を答えとして受け入れたのか、井戸の中に声を落とす。

「それを踏まえて聞きます。何をしているんですか?」
「あんた、一番でかい可能性を無視してるだろ」

 ヒダリの返答に、男は返事をしない。
 何だよ、それがもう答えみたいなものじゃないか、と思いながらヒダリは続ける。

「正解は、自殺しに来た、だよ。恋人が死んだんだ。何度もアプローチして、やっと付き合えたばかりの大切な人だった。さっきその人の葬儀が終わったんだよ。その足で、ここに来たんだ」
「自殺なんて、いけないことです」
「どうしていけない? だって、もう生きている理由が無いんだ。あの人の為に使う人生だった。でも、あの人は旅立っちゃった。何も言わずに、何も残さずに。……だから、これからそれを、聞きに行くんだ」
「自殺する権利なんて、誰にもありませんよ。人は決められたときに死ぬ、それだけです。その運命を曲げて、自分の意志で死のうなど、神の意に反します」

 男の声は毅然としていた。小さかった雨粒は、段々と大きくなっていて、ヒダリの頬を叩き始める。

「“神”? なに、あんたキリスト教徒?」
「そういうわけではありません。ですが、生命は、神聖なものです。人間の一時の感情で、左右されて良いものじゃない」

 どこか機械的な口調ながら、どこか信念のようなものを感じる。自分の屁理屈なんて、始めから吹けば飛ぶようなものだったのかもしれないと、ヒダリは感じた。
 ああ、面倒臭い奴に絡まれちゃったな、と言い訳じみた事を考えながら、長い溜息をつく。
 そうして、泥だらけのセーラー服のスカートを払って、立ち上がった。短く切りそろえられたショートカットの髪の毛が、雨で顔に張り付く。
 ……もう、観念するか。そう思って、ヒダリが「引き上げてくれない?」と声を掛けようとした、その時だった。

 覗き込んでいる男の声が、ヒダリの言葉を遮った。

「失礼ながら、その人の名前を伺っても?」

 ……変なことを聞くな?
 まあ、良いだろう。ヒダリは、その恋人の名前を告げる。
 瞬間、ヒダリは、顔の無い男の口が、醜悪に吊り上がるのを見た。

 嗚呼、それは見間違いかも知れない。
 表情なんて、最初から少しも動いていないのかもしれない。
 だが、見えないはずのその男の顔が、悪魔のように吊り上がるのがヒダリには見えていた。

 男の言葉は、それだけ、悪意に満ちていた。

「ああ、その人なら、このあいだ僕が『間引き』ました」

最初に気づいたのは、いつだっただろう。

その日は自らにとって、大事な日だった事はイヌマ自身が覚えていた。

普段は平凡な大学で平凡に学んでいる学生であるイヌマには、誰にも言わない「日課」があった。

その日も「日課」を済ませるために、帰り道ですれ違った1人の女の後をつけている。

女はストーキングされている事に気づいたのか、小走りになっている。イヌマは女の歩幅に合わせるように普段歩くスピードよりも早めに後ろを歩いていた。

少し怯えたような表情の女と対照的に、イヌマの顔にはおよそ「感情」というものが感じられなかった。

そして、女の自宅マンション前に差し掛かった時、女は初めて抵抗の素振りを見せた。

「あの、さっきから後を付けてきてますよね。そういうの、やめてください!」

彼女にとってみれば、それは必死の勇気で振り絞った叫びだったろう。

そんな悲鳴にも似た抵抗に対してもイヌマは眉ひとつ動かさず、女にある宣告をした。

「ごめんなさい。あなたには今日初めてお会いしました。あなたに怨みがあるわけじゃないし、あなたの不幸が嬉しいわけじゃないんです。でも、僕は、『間引かなきゃ』ならないから」

「何……?」

次の瞬間、イヌマは女性に音もなく近寄り、そしてこう告げる。

「あなたを、間引かせて頂きました。」

次の瞬間。女性の心臓を、細く、鋼鉄製の錐のように長いイヌマの中指が貫通していた。

「え……」

心臓を貫かれたまま呆然と胸元を見ていた女だったが、徐々にうなだれ、1分もしないうちにうめき声すらあげなくなった。

イヌマの指先が普通の人間と変わらぬ形状に戻り、女の体が支えを失って地面に崩れた。座り込んでいるような姿の女を見下ろす格好となったイヌマの口が肩まで裂け、光を失った目で遠くを見つめる女の死体を一口で飲み込んだ。

「はい、おしまい」

まるでテレビゲームのプレイを終えたかのような軽い口調でつぶやいた後、バッグを漁り

「へえ、僕の大学の近くで働いてたんだ。奇遇だね。」

もう二度と使用される事はない女の社員証をポケットに入れて、「いつも通りの」帰途についた。

 

人並みの正義感を持ち、人並みの狡賢さを備えたイヌマは、その成長過程で何故か人とは外れた歪んだ使命感を持つようになった。

 

そうして、いつしか自らも気付かぬうちに人ならざる姿へ堕ちていった者のことを、-転生者-と呼ぶ者たちがいた。