こんにちは、大井です。

 

久しぶりのブログ更新となります。

最近は多忙を極めたためブログの新規投稿を長いこと怠っておりました。

仕事がようやく落ち着きましたのでまた投稿を再開したいと思います。

 

昨日130日は「マイヤーリンク事件」の起きた日でした。

 

今から134年前の1889130日早朝、ウィーン郊外の狩猟用館においてオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子ルドルフ(ルードルフ)が17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとピストルで心中自殺を図った衝撃の事件。事件現場の地名からこの出来事は一般に「マイヤーリンク事件」と呼ばれています。妻子ある30歳の皇太子が13歳年下の愛人と心中してしまうとは!

 


 

世界中に衝撃を与えたこのミステリアスな事件は、後に小説、映画、バレエ、ミュージカルの題材となり、ロマンチックな要素に満ちた悲劇の純愛物語として語り継がれています。昨日1月30日には、この謎多き自殺と関わりがある舞台作品2本のライブ配信がありました。

 

宝塚歌劇『うたかたの恋』(宝塚大劇場)

東宝ミュージカル『エリザベート』(博多座)

 

『うたかたの恋』は宝塚歌劇で何十年も再演が繰り返されている人気の名作ですね(宝塚版『エリザベート』も同じく)。昨日『うたかたの恋』をライブ配信で視聴したところ、前作からさまざまな点でアレンジや演出が加えられていることに気づきました。

 

また、歴史学の視点からも興味深い要素が追加されているようでした。

たとえば、陰謀の黒幕フリードリヒ陸軍大臣(以前は「官房長官」の職名)やフランツ・フェルディナント大公の描き方に関する変更部分は興味深く感じました。特に後者については、ゾフィー・ホテクとの貴賤婚、後に彼が皇位継承者となった際に皇帝と対立することになる思想の萌芽、個人的な葛藤などが垣間見えました。フェルディナント大公は、舞台終盤のシーンで自死を決意したルドルフからハプスブルクの未来を託されます。しかしその彼も、25年後にサライェヴォで妻とともに暗殺され、それが引き金となった第一次世界大戦が帝国の崩壊を導きます。二人の最後のやり取りのシーンは、ルドルフの自殺→フランツ・フェルディナントの暗殺→帝国の滅亡という運命のベクトルを暗示しているかのようでした。

また、『ウィーン日報』社主のツェップスをめぐる劇中の描写も、旧作から少し変化があったように見受けられます。

 

というわけで、昨日受けたインスピレーションをもとに、以前ブログで途中のまま終わっていた皇太子ルドルフとマイヤーリンク事件について今回改めて取り上げてみたいと思います。

マイヤーリンク事件については、今年度の勤務校の授業において『うたかたの恋』『エリザベート』、英国ロイヤル・バレエ『マイヤーリンク』の映像を使いながら「史実の語られ方」に注目してきました(2022年度前期「西洋文化史講義5」「西洋文化史特殊講義IIIa」)。そのあたりのことは以前のブログでもご紹介したとおりです。

 

 

今回の記事では、私が同じく前期に担当した「女性史」の授業において皇太子ルドルフとマイヤーリンク事件をどのように扱ってきたか、使用スライドの一部をお示ししながら簡単にご紹介したいと思います。

 

幼少期の教育

 

ルドルフは、1858年8月21日、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの第3子(長男)として誕生しました。

 

 

 

男児として生まれたルドルフには、生まれながらにして帝国の皇位継承者としての重い使命が課せられていました。そのため、彼には当然未来を見据えた帝王教育が施されることになります。

 

 

 

皇太子ルドルフが受けた過酷な軍隊式の帝王教育については、海外ドラマ『エリザベート 愛と哀しみの皇妃』(2009年)などでも登場し、幼いルドルフはこれにより精神的に病んでしまいます。父親の皇帝フランツ・ヨーゼフも同じようなスパルタ教育で育っていますので、こういう教育が「おかしい」という発想は父にも祖母ゾフィーにもなかったのかもしれません。あるいはこの二人はこういう行き過ぎた非人道的な教育の詳細をどこまで把握していたのでしょうか?(軍人の教育係任せでここまで酷いとは気づかず?それとも知っていた?それとも細かく指示していた?)

いずれにせよちょっとやりすぎな感は否めませんね。

 

ミスマッチな教育?

 

ルドルフが父と同様にこういう軍隊式帝王教育に耐えられる性質を持つ子供であったならば話はまだ分かります。しかし実際の彼は、父とはメンタルも体質も真逆のひ弱な子供でした。

 

 

精神と肉体が弱いからこそ、それを鍛えるために厳しい教育を!なるほど、我々の時代にも見られた精神論です。部活中どんなに炎天下の酷暑のもとでも水は飲むな!うさぎ跳びで足腰と根性を鍛えろ!と顧問から指導を受けていましたが、我々はそれが胆力や根性の強化につながると思い歯を食いしばりながら従っていました。ところが、今はこれらの指導は根拠のない非科学的なトレーニングということでタブーとされています。

 

一人息子にこうした教育がなされていることを母親のエリザベートは知りませんでした。1860年代半ばの彼女は旅に出ることが多く、王宮を頻繁に留守にしていた時期だったからです。

 

そんなある日のこと、エリザベートは息子の教育の実態をある軍人の密告により知ります。

 

 

この報告に衝撃を受けたエリザベートは、息子に対する非人間的な教育を中止するよう夫に詰め寄ります。さらには教育の主導権を自分に与えるよう夫に強く迫り、どさくさに紛れて自分自身の行動と決定の自由権も抱き合わせで要求する「最後通牒」を皇帝に発します。ミュージカル『エリザベート』でもこのあたりのエピソードは第1幕の後半に盛り込まれていますね。

 

こうして半ば脅迫めいた手紙で夫から譲歩を勝ち得たエリザベートは、息子を軍隊式の教育から解放します。さらには、自由主義的な考えを持つ教育係や市民層の教師を新たにつけてこれまでと真逆の教育方針を採用します。1945年8月を境に、その前と後で教育内容が180度転換した日本人みたいですね。

 

 

 

それでは、後のマイヤーリンクの悲劇は、幼少期に受けた過酷な教育のトラウマが関係しているのでしょうか?また、その後に受けたリベラルな教育は、ルドルフの人生や自殺にどのような影響を与えたのでしょうか?いろいろなことが言えると思います。ただ現段階ではまだまだ研究不足ゆえ、私の答えはしばらく先延ばしさせていただきたいと思います。

 

 

さて次回は、成人して妻子を持ったルドルフが愛人マリー・ヴェッツェラと自殺した背景、その悲報に接した母エリザベートの反応とその後などをご紹介したいと思います。

 

つづく