安史の乱のような戦乱下において、求められるのは素早い決断力。
でも、粛宗は優柔不断な性格で、
物事をなかなか決められない一面がありました。
臣下の中には、
「太上皇(玄宗)の判断を仰いではいかがでしょうか」
と進言する者がいました。
粛宗は自信を失い、
「私は退位して、太上皇に復位してもらうのがいいのでは…」
と悩んでいました。
また、粛宗の妃・張皇后も悩みの種の一つでした。
粛宗には、
第一皇子・李俶、第二皇子・李係、第三皇子・李倓など、
合計14人の皇子がいました。
中でも、李俶は玄宗と粛宗から才能を認められ、
可愛がられて育ちました。
李俶が皇太子になるものだと、誰もが思っていました。
でも、張皇后は、
自分が産んだ第十三皇子・李侗を、皇太子にしたいと思っていました。
「皇太子にしたい」ではなく、
「皇太子にしなければいけない」というのが正しいかもしれません。
皇子の中で最も年長者の李俶が皇太子になると、
李侗は皇太子になる機会を失います。
粛宗が崩御した後、皇帝に即位するのは皇太子です。
張皇后は李侗を皇太子にして、将来、李侗を皇帝に即位させ、
自分が背後から操ろうと考えていました。
則天武后のような野心家ですね…
でも、李侗はまだ幼く、
他の皇子を差し置いて、皇太子にすることはできませんでした。
そこで、張皇后は李係を皇太子にして、
李侗が成長したら、李係を排除しようと考えました。
李係をつなぎの皇太子として、利用することにしたんです。
利用されていることに気付かず、
李係は張皇后と手を組み、李輔国の殺害を企てました。
200人の兵を集めて、計画を実行しようとしましたが、
李輔国が気付き、張皇后と李係は殺害されました。
妃と息子が皇太子争いに関与していたことを知った粛宗はショックを受けました。
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