751年、楊氏六宅は夜の長安にくり出しました。
すると、長安の西市の門付近で、
楊氏六宅と玄宗の第24皇女・広平公主を乗せた馬車がぶつかりました。
広平公主の下僕は、楊氏六宅が謝罪して、道を譲るものだと思っていて、
楊氏六宅は広平公主が謝罪して、道を譲るものだと思っていました。
楊氏六宅は謝罪しませんでした。
それどころか、広平公主の下僕を鞭で打とうとしたんです。
ところが、鞭は広平公主の衣服に当たり、
驚いた広平公主は落馬してしまいました。
広平公主の夫・程昌裔は広平公主を助け、
楊氏六宅の下僕を鞭で打ちました。
長安の街で落馬し、屈辱を受けた広平公主は、
玄宗に告げ口しました。
玄宗が楊氏六宅を罰してくれるものだと思っていた広平公主。
でも、玄宗は楊氏六宅の下僕を死罪にし、
程昌裔を停職処分にしました。
肝心の楊氏六宅には、何のお咎めもなかったんです。
楊貴妃はもちろん、
楊氏六宅が玄宗から如何に優遇されていたか、よく分かりますね。
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