吐蕃、契丹、突厥の同時侵攻① | 歴史で旅する

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封禅を終えて間もなく、吐蕃が再び攻めてきました。

 

武則天は、王孝傑を粛辺道行軍大総管に、

婁師徳を副総管に任命し、吐蕃を征討するように命じましたが、

洮州(甘粛省甘南チベット族自治州)で激戦の末、王孝傑軍は大敗してしまいました。

 

責任を問われた王孝傑は免官処分、

婁師徳は原州(甘粛省慶陽市)の員外司馬に左遷となりました。

 

唐が吐蕃に大敗したことを知った契丹と突厥は、

「今がチャンスだ」とばかりに攻めてきました。

 

吐蕃、契丹、突厥の三民族に同時に攻められ、

「太刀打ちできない」と思った武則天は、

吐蕃に有利な和平条約を結び、吐蕃の侵攻を停止させました。

 

こうして、唐は、契丹、突厥の二民族と戦うことになりました。

 

契丹は東北地方を拠点とする民族で、高祖の時代に、唐の支配下に入りました。

高祖、太宗、高宗の時代、契丹は安定した生活を送っていました。

でも、武則天が趙文翽を営州(遼寧省朝陽市)都督に任命したことで、

契丹の生活は一変します。

趙文翽が上の者には媚び、下の者には冷たく当たる人物で、

契丹が不満を抱き始めたんです。

 

不満を募らせた契丹の首領・李盡忠は挙兵し、趙文翽を殺して、営州城を奪いました。

 

 

そして、営州城の兵を捕虜にし、

「『周軍が攻めてきたら、私達契丹は降伏するつもりだ』と伝えるように」

と言って、捕虜を解放しました。

解放された捕虜は洛陽に向かいました。

 

武則天は左鷹揚衛将軍・曹仁師、右金吾衛将軍・張玄遇、

司農少卿・麻仁節ら28人を上将として、契丹を征討するように命じました。

 

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