封禅を終えて間もなく、吐蕃が再び攻めてきました。
武則天は、王孝傑を粛辺道行軍大総管に、
婁師徳を副総管に任命し、吐蕃を征討するように命じましたが、
洮州(甘粛省甘南チベット族自治州)で激戦の末、王孝傑軍は大敗してしまいました。
責任を問われた王孝傑は免官処分、
婁師徳は原州(甘粛省慶陽市)の員外司馬に左遷となりました。
唐が吐蕃に大敗したことを知った契丹と突厥は、
「今がチャンスだ」とばかりに攻めてきました。
吐蕃、契丹、突厥の三民族に同時に攻められ、
「太刀打ちできない」と思った武則天は、
吐蕃に有利な和平条約を結び、吐蕃の侵攻を停止させました。
こうして、唐は、契丹、突厥の二民族と戦うことになりました。
契丹は東北地方を拠点とする民族で、高祖の時代に、唐の支配下に入りました。
高祖、太宗、高宗の時代、契丹は安定した生活を送っていました。
でも、武則天が趙文翽を営州(遼寧省朝陽市)都督に任命したことで、
契丹の生活は一変します。
趙文翽が上の者には媚び、下の者には冷たく当たる人物で、
契丹が不満を抱き始めたんです。
不満を募らせた契丹の首領・李盡忠は挙兵し、趙文翽を殺して、営州城を奪いました。
そして、営州城の兵を捕虜にし、
「『周軍が攻めてきたら、私達契丹は降伏するつもりだ』と伝えるように」
と言って、捕虜を解放しました。
解放された捕虜は洛陽に向かいました。
武則天は左鷹揚衛将軍・曹仁師、右金吾衛将軍・張玄遇、
司農少卿・麻仁節ら28人を上将として、契丹を征討するように命じました。
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