魏国夫人の最期 | 歴史で旅する

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韓国夫人には、故・慶蘭越石との間に、

賀蘭敏之という息子、賀蘭敏月という娘がいました。

 

母に先立たれた賀蘭敏月を不憫に思った高宗は、

賀蘭敏月に魏国夫人の称号を与え、宮廷に呼び寄せました。

(以下、賀蘭敏月 → 魏国夫人)

 

当時15歳だった魏国夫人は、武后の若い頃にそっくりで、

高宗が目を奪われるほどの美人でした。

 

そして、高宗は韓国夫人に続いて、魏国夫人にも手を出してしまいました。

 

妃妾を削減したのに、高宗自身が手を出してしまっては、

武后はどうしようもありません。

 

そこで、武后は武惟良と武懐運を利用して、魏国夫人を殺害することにしました。

 

武惟良と武懐運は、幼少期に武后をいじめていた従兄弟ですね。

武惟良は始州(四川省広元市)刺史、

武懐運は淄州(山東省淄博市)刺史として、封禅に参列していて、

二人は、ちょうど都に滞在していたんです。

 

【2020年10月27日追記】

 

666年、武后は「母・英国夫人の家で、皆で食事をしましょう」と呼び掛けました。

 

もちろん、魏国夫人、武惟良、武懐運の3人にも声を掛け、

武惟良、武懐運には、食事の準備をさせました。

 

そして、魏国夫人の食事に毒を盛り、殺害しました。

 

武后は、

「私を狙ったに違いない。魏国夫人は私の代わりに死んでしまった」

と騒ぎ、

「私を憎むのは、従兄弟の惟良と懐運だ」

と言って、二人に濡れ衣を着せました。

 

武惟良と武懐運の仕業であるという証拠はありませんが、

皇后である武后に言われては、従うしかありません。

 

二人はその場で斬られ、

更に、武氏から「蝮」(まむし)に改められてしまいました。

 

こうして、武后は、姉・韓国夫人、姪・魏国夫人、従兄弟・武惟良、武懐運を殺害しました。

 

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