香住沖に沈没した第四十七号海防艦。
歴史の闇に閉ざされてた香住沖海戦を解説いたします。
昭和20年8月13日
舞鶴港を出港。
西へ航行、僚艦と合流し朝鮮の元山に航行予定。
この頃、朝鮮はソ連が南下し日本軍と民間人を攻撃していた。
海防艦は元山港に集結中である日本船団の内地向け護衛を命ぜられていた。
(小学館の日本海海戦の地図を拝借)
8月14日 10時40分頃
香住沖にて米軍潜水艦と遭遇。
交戦するが、魚雷を艦尾付近に受け、浸水。
そして沈没。(N35度42分、E134度36分)
乗組員201名、うち戦死者・艦長以下28名、戦傷20名、生存者153名。
そして翌日8月15日、玉音放送にて終戦へ。
生存者は列車で舞鶴へ移動。
東郷平八郎の日本海海戦でご存知のような日本海不敗神話はここで終ったと言えよう。
まさか米軍潜水艦が日本海の近海に潜んでいようとは…。
8月15日以降は米軍は攻撃の手を緩めたが、ソ連軍はさらに南下を続けた。
朝鮮北部も激しい攻撃にさらされたのだ。
参考文献 海防艦戦記(原書房)