平将門の一生 | rekisisaiのブログ

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平将門は人気があります。

ほぼ英雄視されている偉人です。

神田明神のご本尊様であります。

しかし将門はなぜこのように人気があるのでしょうか?

それは平安時代に革命的な思想をもって朝廷に反旗を翻したからです。

当時の朝廷から離れた国は今でいう県知事がおさめていました。

当時の呼び名は守、介、掾、目との役職に区分されています。

それぞれカミ、スケ、ジョウ、サカンと読みます。

例を挙げれば武蔵守や山城守などの表現を宛てます。

この守の位を与えられた県知事を受領といいます。

ズリョウと読みます。

例外として上総、上野、常陸は介が受領の扱いでした。

なぜかというと以上の三国は当時の親王殿下がサラリーだけもらっている国だったのです。

従って上総守、上野守、常陸守は親王殿下が任国しないで官位だけもらっていました。

だから織田信長の若き日の官位が上総介、吉良義央の官位は上野介、菅原孝標の娘の父は上総介だったり常陸介だったりします。

後世の官位の付け方は省きます。

信長と吉良の両人を挙げました混乱するので別個にしてください。

将門は実は皇族に当ります。

もちろん親戚降下した一族です。

桓武天皇の一族で平の姓を持つ桓武平氏です。

清和天皇の一族で源の姓を持つ一族は清和源氏です。

この一族を明確に知るには代表的な系図があります。

尊卑分脈という系図です。

戦国時代につくられました。

京都のお公家さんが製作したので客観的に判断できます。

寛政重訂諸家譜との系図もあります。

これは江戸時代に松平定信が編纂した大名家による大名家のための系図です。

ですので少し割り引いて読んでいかなくてはいけません。

他に寛永年間に作られた系図や大名家ごとに作られた系図もありますが割愛させていただきます。

きりがないのでご勘弁を願う次第です。

将門は平良茂の三男としてうまれました。

ちょっと生没年がはっきりしないので菅原道真が遣唐使を廃止した894年以降だとおもってください。

将門が死んだのははっきりしています。

940年です。

先に出てしまいましたが従兄弟の平貞盛や上野の押領使だった藤原秀郷に打ち取られています。

将門はあるハンデがありました。

お父さんの良茂が将門の元服前に亡くなってしまったのです。

当時の位は父親がものを言いました。

システム的に表現すると社長の息子は成人すると部長になれたり部長の息子は係長になれました。

蔭位の制といいます。

このシステムに引っかかったので将門はどんなに手柄を建てても官位がもらえません。

守にも介にも掾にも目にもなれませんでした。

将門を知っている方に申し上げますが当ブログでは良持ではなく良茂を用います。

いまだに良持と良茂とで論争があるようですが将門が生きた時代は知識階級も限られてスマートフォンも写メもありません。

指名手配の写真が使われたのは明治初期に佐賀の乱で江藤新平が初めてですから。

そんな中なのでコピーもない時代です。

写本をするので誤字脱字は当たり前でした。

だから将門の一代記である将門記もなになに本というのがいくつかあります。

なにも歴史は勝者がごまかして改ざんしただけではなく当時の記録や保管などの限界からミステリーがうまれます。

将門はお父さんがしんでしまったので伯父さんたちが良茂の開墾した荘園に目を付けました。

将門は京都から失意のうちに帰ってきました。

お父さんのせいで出世ができないので帰ってきたとされています。

ここは疑問に感じるところが大きいのですが時代小説として考えるのならば伯父さんが荘園を狙っている報告が入ったのでしょう。

歴史学的に考えるのならば将門が謀反を視野に入れて戻ったのかもしれません。

ここで将門の故郷は坂東ですので土地の争いが絶えない地域です。

開墾する土地が多くあり京都のお公家さんは未開の地としていました。

足柄の関以降は人が住む地域として見なしていませんでした。

もっとひどいのは東北地方でした。

誤解を恐れずにいえばアイヌ民族の方を蝦夷として見下していました。

東国は東夷です。

アズマエビスと読みます。

吉田兼好も徒然草の中で東夷との表現を使っています。

との差別があったので将門は叛意を持っていたかもしれません。

きっと京都で悔しい思いをしたでしょう。

京都のお公家さんに東夷だの官位を持っていない卑しい奴だといわれれれば面白くないはずがありません。

将門は伯父さんを打倒します。

先ほど挙げた平貞盛の父にあたる平国香を自害に追い込みます。

当時国香は常陸の大掾でした。

常陸は国の規模が大きいので掾のほかに大掾がおかれていました。

歴史家として恥ずかしいのですが厳密な区別は難しく当時の法律の律令に決め方のマニュアルは載っていますが不明な点も多いです。

マニュアルどおりに歴史書を読み進めていくと記録が欠のところが多く照らし合わせると合わない箇所が出てきます。

当時の記録の限界とさせていただきます。

こんな話をしましたが国香の息子の貞盛が駆けつけます。

将門と違って貞盛は官位を貰っていました。

左馬允という官職です。

サマノジョウという厩の管理人でしたが常陸掾として常陸に任国します。

正確にいうと常陸大掾なのでしょうか。

国香の後任として考えれば。

ところが将門記では貞盛がオドオドして国香の弔い合戦を始めません。

貞盛は将門に直ぐに当たるのは良くないと思いわなを仕掛けていたのでしょう。

と考えるのが時代小説で歴史学的に見れば常陸国府に籠っていたのではないでしょうか。

しびれを切らしたのが良兼という伯父です。

将門にとっては伯父で貞盛にとっては叔父です。

貞盛は不利な状況を説いたようですが良兼は振り切り貞盛を引き連れて将門に勝負を挑みます。

将門は良兼の娘が嫁いでいました。

将門と恋仲だったようで一般に桔梗と呼ばれています。

将門が桔梗が好きで良兼から奪う形で娶ったようです。

良兼と貞盛連合軍は二度負けます。

しかし三度目は将門に対して雪辱を果たします。

この時桔梗は将門に与した咎なのか将門とはぐれた時に乱暴にあって殺されたといわれています。

将門と良兼は幾度も戦います良兼がなくなって二人の勝負はなくなります。

ホッとした将門でしたが今度は藤原玄明というならず者が将門を頼ってきます。

常陸で略奪や乱暴を働いたのに将門に対してかくまってくれ、との虫のいい申し出です。

将門はあろうことにも玄明をかくまい常陸の国府と合戦に至ります。

時代小説的に見れば復讐のチャンスだと思ったのでしょうか。

歴史学的に見れば暴挙に至る経緯がまだ見つからない状態です。

ならば今日の朝廷に対して帝を名乗る伏線でしょうか。

もうひとり将門をある男が頼ってきます。

武蔵権守の興与王です。

この権守とは定員外の守に当ります。

当時の平安朝の人事でも人事が集中してこのようになったと推測します。

もしかするとなにかの誤植かもしれません。

この興与王が不届き者で将門に対して即位と国家人事たる除目を勧めます。

県庁の国府を襲って国家人事をして帝に即位するのはもはや勝負に勝たない限りテロリストの烙印は免れません。

将門は退路を断ったのでしょう。

時代小説的に見れば。

将門はいい気になって不幸がはじまったのでしょう。

歴史学的に見れば。

将門は貞盛を追い詰めて将門の妻を捕虜にします。

将門は貞盛の妻と和歌の問答をしたあとに釈放したといわれています。

時代小説的に見れば貞盛に恩を売ったのでしょうか。

歴史学的に見ればいつでも自分の側室にできるのでポーズをとったのでしょうか。

そんな散々な目に遭った貞盛ですが下野の藤原秀郷を頼ります。

軍勢を借りて将門に決戦を挑みます。

将門は貞盛がいなくなったので兵を休めていた時に不意打ちです。

将門の神話が崩れ去って行きます。

貞盛にほぼ負けた実績はないのに追い詰められました。

将門の最期がやってきました。

その日は春一番が吹く日で将門の軍勢は四百で貞盛と秀郷の軍勢は四千とされています。

ところが将門は奮闘し貞盛と秀郷を敗走させます。

しかし将門の運が尽きるのが早いのか貞盛が強運なのか春一番にのった矢が将門のこめかみに当りました。

将門の敗死です。

将門はこれでテロリストとして後世に伝えられる結果を引き当ててしまいました。

帝に即位したまではよかったのでしょうが人の運はどこで尽きるかわからない教訓を将門は残してくれたのでしょう。

将門は将門記という軍記物語で見ることができます。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

歴史斎の分身の牧野君は将門に関連する書籍をいくつか出しています。

よろしかったら応援をお願い致します。

もっと知りたいひとのために書いたのでよろしくお願いします。

同時に反逆した藤原純友も書いています。

伝説では将門と協力して天下を転覆しようとしたようです。

将門が天皇で純友が関白ですか?

それも歴史のミステリーやロマンですね!