歴史系図トリビア
これは楽しい!おもしろい!
そう感じるような歴史上の人物の系図を
紹介していきます

みなさんこんばんは(´Д` )

本日は歴史好きなぶたさんの大好物!

楽しい歴史系図でございます(´Д` )!

ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。



はい(´Д` )

本日は大河ドラマ「光る君へ」の裏幕的なお話をしていきたいと思います。



「光る君へ」には摂政関白・藤原道隆と高階貴子の子女として、藤原伊周・定子・隆家が登場しています。

しかし、実は彼らには他に四人も同母弟妹がいたんです(´Д` )

彼らは三男四女の七人兄弟だったんですね。

平安時代のお話なので、他に異母兄弟もいるのですが、本日は定子、そしてその同母妹である原子・三の御方・御匣殿について見て行きたいと思います。



定子四姉妹は、前述のように摂政関白であった藤原道隆の娘たちです。

父の生前は最高の権勢家の息女として、この上ない後楯を持っていました。

しかし、父の道隆が亡くなり、長徳の変で伊周・隆家が失脚、四姉妹は後楯を失いました。



長女・定子は一条天皇の中宮でしたが、長徳の変で落飾、以降は叔父の道長の権勢に押されて、道長の娘・彰子立后に伴い、皇后となりました。

脩子内親王・敦康親王・媄子内親王を儲けますが、第三子の媄子内親王出産後に産褥死し、若くして薨去することとなりました。

ちなみに、一条天皇の母・藤原詮子は定子の父・道隆の妹であり、定子と一条天皇はいとこに当たります。



次女の原子は道隆在世中に三条天皇の東宮妃(皇太子時代の妃)となりますが、その後すぐに父が死去、兄弟が失脚して後楯を失いました。

彼女もまた若くして亡くなりましたが、突然吐血してそのまま急死したらしく、『栄花物語』によれば同じく東宮妃であった藤原娍子の女房を怪しむ噂が立ったようです。

なお、三条天皇の母は原子の父・道隆の妹の超子であり、原子と三条天皇もいとこの間柄となります。



三女は実名が不明で、『栄花物語』では三の御方と称されています。

彼女は冷泉天皇と藤原超子の皇子で、三条天皇の同母弟であった敦道親王の妃となりました。

これまたいとこ婚となります。

もともと敦道親王との仲はしっくり行っておらず、道隆の死後に離縁、その後は零落したと伝えられています。



四女も実名が不明で、長姉の定子に御匣殿別当として仕えていました。

定子に皇子女の養育を託され、敦康親王の母代となり、後に定子の夫であった一条天皇の寵愛を受けましたが、懐妊中に急死しました。

まだ十代であったと言われています。

一条天皇は御匣殿に亡き愛妻・定子の面影を見たのでしょうか。

一条天皇と御匣殿もまたいとこの間柄でした。



さすがは摂関の娘たち、道隆在世中に結婚した定子・原子・三の御方は、それぞれ天皇・皇太子・親王に嫁いでいます。

一条天皇に寵愛された時点で実家がすでに没落していた御匣殿は正式な后妃になることは出来ませんでしたが、それでも四姉妹は全員皇族と縁付いたことになりますね。

なお、血縁的には全員いとこ婚でした。



以上見てきたように、定子たち四姉妹はもとは当時の最高権力者の娘であり、天皇・皇太子・親王の后妃となって栄華の中にいました。

ところが、摂関であった父・藤原道隆の死、長徳の変での伊周・隆家兄弟の失脚によって後楯を失い、早世または零落するなどして、悲劇的な人生を歩むことになりました。

まさに栄枯盛衰ですね(´Д` )



定子四姉妹の系図をまとめました。

歴史にifは禁物と言いますが、道隆がもう少し長生き出来ていたら、また伊周と隆家が失脚しなかったらどうなっていたかと考えてしまいますね。


以上、藤原定子とその妹たちの系図を見ていきました。

「光る君へ」の裏幕でこのような悲劇が起こっていたのですね(´Д` )

切ない(´Д` )

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


参考:この系図の作成にあたり、『尊卑分脈』の他に以下を参考にしました。

小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003

石川徹校注『新潮日本古典集成〈新装版〉大鏡』新潮社、平成二十九年

松村博司校注『日本古典全書 榮花物語一』朝日新聞社、昭和三十一年

松村博司校注『日本古典全書 榮花物語二』朝日新聞社、昭和三十二年