讃岐に向かった宇喜多、黒田の軍勢は、牟礼・高松・香西を席捲しながら、阿波に入り羽柴秀長軍と合流した。
羽柴勢に加わった宇喜多秀家は、阿波板野木津城攻めに参戦し初陣を経験した。
秀家は南蛮鉄仏胴具足をつけ、中間たちの持つ弾丸楯に囲まれ、木津城の攻防を見渡せる高所に陣を進めた。
彼は羽柴勢の士卒が、干潮のときを待ち攻撃をしかける光景を、暑熱も忘れて眺めた。
「あのなかには当家の者どももおるんか」秀家は聞く。「おりますらあ。あの岩の蔭から出てきた二つ団子の自分差物を差しよる者は、足軽大将の堀田孫大夫でござります」
味方の士卒は干潟で足をすべらせ、よろめきつつ城際へ迫ってゆく。城兵たちは押し寄せてくる羽柴勢が射程のうちに入ると、いっせいに銃撃の火蓋を切った。
鉛弾は命中すると扁平になり、人体を渦巻き状に貫くので首・足・腕が被弾するとちぎれ飛ぶ。
秀家は強壮な士卒が血しぶきをあげ、倒れ伏すありさまを目の辺りにして、具足のなかに小便を漏らした。
戦死者が三百人に達したので、引き鉦が鳴らされ退却する。
再度の城攻めは信長第十女婿、中川秀政が指揮をとっておこなわれた。秀家の傍らで宿老たちが声をあげた。「あの馬標は藤兵衛(秀政)殿ではなあか、いまだ若年だが、どう攻めるかのう」摂津茨木城主の秀政は十六歳であったが沈着な行動をとった。
潮が引くのを待っていた中川隊が、いっせいに法螺貝を吹く鳴らし攻撃に移った。騎馬武者は泥をはね散らし馬を走らせた。槍・鉄砲を持つ足軽たちが早駈けであとにつづく。
秀家は気をたかぶらせ床几から立ち上がり、中川隊の奮戦ぶりを眺めた。
翌日、城将東条関兵衛は降参して城を明け渡した。
(阿波侍の東条関兵衛は土佐へ逃れたが、長宗我部元親は大いに怒り、城を陥れられたばかりか、一宮や海部の城を守りもせず、土佐へ逃げるとは何事か、といって、長男信親に命じて詰腹を切らせた)
宇喜多秀家は、城から痩せ馬を曳いて出て来る東条関兵衛のいでたちが、あまりにも貧相であるのにおどろく。
具足は色あせ、太刀の柄糸がほころびたうえに、細紐を巻きつけてある。顔は頬がそぎ落されたように痩せ、血走った両目が燃えるような鋭い光を放っていた。
「いなかで野戦をかさねた者は、おおかたあのような風体でござりますらあ」家老の長船貞親がいう。
「若さま、合戦取り合いにて大将たる者の采配の取りようが、お分かり召されしか」富川ら家老に問われた秀家は、うなずいてみせる。
彼よりも三歳年上の中川秀政が見せた武者ぶりは、全軍の賞讃を集めるほどに、水際立っていた。
「儂も、やがて藤兵衛殿のように采配をいたしたいものじゃ」秀家は怪我人の呻き声を聞きながら、凄惨な戦場の光景に慣れようとつとめた。
木津落城後、秀長は兵を三手に分かち、海部・一宮・岩倉方面へそれぞれ向かわせた。
秀長軍の一宮攻撃は、元親にとって生死をかけた戦いだった。水路を断たれ落城寸前になった一宮城の城将谷忠兵衛へ、和議交渉のため秀長のもとへ来るように申し入れた。
長宗我部元親は七月十九日、羽柴秀長のすすめに応じ、三男の津野孫二郎親忠を人質として降参した。
宇喜多秀家は七月下旬に同勢とともに大坂へ凱陣した。秀吉は、秀家を見ると相好を崩して労をねぎらった。
秀家と豪姫
長宗我部元親の像
「宇喜多秀家:備前宰相」へ続く

