之助・輝政兄弟の右翼も、信輝が討たれて間もなく壊滅状態に陥った

輝政は家臣に守られて落ちたが、紀伊守之助は、信輝の身を案じて戦場をさまよっているうち、奇しくも父信輝に一番槍をつけた直次と遭遇した

槍を失った紀伊守は太刀をふるったが、むなしく空を斬っているうち、信輝の胸下を突いた槍に咽を貫かれて非業の最期をとげた

 

総大将の三好秀次は潰乱のうち、秀吉正室おねの父、木下助左衛門祐久とおねの弟、勘解由左衛門利匡討ち死のなか、徒歩立で遁げ帰った。

なお、この戦いのとき本田忠勝が、わずか五百の兵で八万の秀吉本隊にあたり、家康のために時間かせぎをしたことは有名で、鹿角の兜をかぶり、名槍蜻蛉切りを振りまわされては敵も手出しができなかったのであろう。

また、信輝が家康の旗本永井伝八郎直勝に首級を授けたのは茗荷畑であったので、池田家では以後、茗荷(みょうが)は食膳に供しないという

 

以上が池田信輝・之助父子の討ち死した長久手の戦いを、池田軍を中心に記してみました。

短時間の決戦ではあったが、池田勝入信輝の最後を鮮明に記録しているものはないとあります。

 

 

仏ケ根にある之助(ゆきすけ)の墓碑

 

 

 

「宇喜多秀家:初陣」へ続く