天正十年三月十五日、羽柴秀吉は全軍二万余の大軍勢を率いて姫路城を進発し、三月十九日沼城に到着した。

この城で岡山の宇喜多氏の動向を調査し四月四日、秀吉は宇喜多氏の本拠石山城へ入城した。このとき「備前太閤」といわれた宇喜多直家はすでに死亡し、その嫡男八郎(秀家)が幼少であったので、叔父の浮田忠家が後見役としてすべてのことを代行していた

 

秀吉は入城の翌日、宇喜多氏の重臣たちと作戦計画を練った。秀吉はまず、得意の無血で城盗りををする文書による懐柔策を展開することにした。

四月五日、秀吉の家臣蜂須賀正勝と黒田官兵衛尉孝高の二人は、吉備津宮の神宮堀部掃部に、「織田信長誓紙」を高松城内へ持参することを頼んだ。その誓紙の内容は、次のようなものであった。

 

今度、西国成敗のため同姓次丸(織田秀勝)、羽柴筑前守を差し下し候。清水長左衛門(宗治)・中島大炊助(元行)は正兵仁義の勇士と多年聞き及びたり。此度備中・備後を両人へ宛行うべし。毛利家に背き、筑前守と申し談じ、西国の導きたるべし。委細は筑前守申し談ずべきなり。前書の通り、偽るにおいては日本国中大小神祗、殊に宇佐八幡大神宮、天満大自在天神の御罰を蒙るべきものなり。件の如し。

    三月八日                                        信長御判

      清水長左衛門殿

      中島 大炊助 殿                                 「中国兵乱記」より。

 

この信長誓紙に対して、清水・中島両者は、

「信長公の御意に従いたいところでありますが、長年毛利家に随い、天下の境目の守護を頼まれています。毛利家に背き、西国攻略の先鋒を勤めることは、死んでも死に切れない恥辱であります。両国を給わり栄華を誇ってみても、それでは世間に顔向けができません。この旨をぜひ信長公にお伝え頂きたい」と書き留め、堀部掃部に渡した。蜂須賀・黒田両使はだまって秀吉の陣屋に帰った

 

秀吉はこれを聞き再び両使をもって、秀吉の副状を送った。この秀吉の書状にも、丁重な辞退の書状を出している。

秀吉は他の城にも好条件の書状を送り、無条件で降服するように要求したが、いずれの城主も拒否したが、日幡城と加茂城では効果があった

 

その秀吉の軍勢は「前野家文書」によると、

一、先発(二千五百余人)蜂須賀正勝二千三百人、黒田官兵衛尉二百」余人。

一、中備え(八千有余人)宇喜多左京亮五千有余人宇喜多忠家・秀家三千余人

一、脇の備え(一万二千三百余人)羽柴小一郎四千有余人、荒木重堅・加藤光康三千三百余人、浅野長政・前野忠康五千有余人。

一、御本陣 羽柴秀吉、羽柴御次丸(織田秀勝)。

一、後備え(千六百余人)杉原家次・木下昌利・三輪吉高。

「右惣勢子二万七千五百有余人」とある。

 

そこで羽柴秀吉は、秀吉・宇喜多連合軍二万七千余人を二手に分け、右翼隊を高松城の北方にある宮路山城(岡山市足守)と冠山城(岡山市下足守)の二城に、左翼隊を高松城の南にある加茂城(鴨庄城、岡山市加茂)と日幡城(倉敷市日畑)に差し向けた。

 

 

高松城の案内板にある全景想定図のアップ

 

 

 

 

「備中高松城:宮路山城・冠山城攻め」へ続く