加茂崩れのあと毛利軍は加茂川西岸の勝山に対塁を築き、輝元は五月五日に備中松山城に陣を移して、後事を隆景に託して安芸の吉田へ帰還した

 

備中の陣地に残った隆景には、三月の辛川口の敗戦と、それにつづく四月の虎倉合戦の加茂崩れ。思い出しても反吐の出そうな屈辱の敗戦である

隆景は思案の末、一計を案じた

伊賀久隆謀叛の噂を広めて、直家の手で抹殺させるに如かずと考えた。ひそかに忍びの者を備前へ派遣して、宇喜多家中の様子を探らせた。

すると、家中に難波半次郎という家臣がいて、直家の織田氏服属に不満を持ち、密かに誼を毛利氏に通じていた

 

九月、隆景はその半次郎に密書を送った。意を含められた半次郎は、病中の直家にお目通りを願って伊賀久隆の謀叛を告げた

直家は半次郎の進言を戯言として相手にしなかった。だが、病床に入って以来なにごとにつけ疑い深くなっている直家は、すぐさま忍びの者を入れて伊賀家中の内情を探らせれみた。すると、思いがけなくもたらされた情報は黒と出た

「まさか、そんなことが・・・」詮方なく直家は弟の忠家を呼んで相談した

「七郎兵衛よ、この始末どうつける?」「事が露顕に及んだと知れば、相手も用心して守りをかためるでありましょう。窮鼠却って猫を噛むの譬えもあります。大事にいたらぬ前に・・・」「じゃが、相手は妹梢の婿ぞ。それに久隆の妹深雪はそなたの妻じゃ

「大事の前の小事、やむを得ませぬ」「・・・・・・」「後悔はないのか?」「ございませぬ」「ならばそなたに委ねる。よきようにはからえ」「はは」忠家は一礼して兄の居室から退出した。

 

※森本繁氏の記述:[備前軍記]によると、このあと忠家は伊賀久隆を岡山城へ呼んで饗応にことよせ、一服盛ったとあるが、毛利側の史料にはこれとは異なった記述がある。以下、毛利側の記述による。

 

忠家は兄の居室から退出すると、すぐさま難波半次郎を呼びつけた。

「伊賀家中にてその方に同心し、わが宇喜多家に心を寄せる者はいないであろうか?」「ございます。それがしが旧友にて河原四郎右衛門と申します。新参者ながら武芸に秀で、久隆殿の覚えがめでたく、指南役をつとめています

忠家は自分の居城である富山城へひそかに四郎右衛門を呼びつけると、人物の鑑定をしたうえで、主君久隆を暗殺せよと命じた

「よいか、事成就のあかつきには、殿に言上して半次郎ともども重臣に取り立てる」喜んだ四郎右衛門は虎倉城下へ帰ると、早速虎倉城内へ使者を立てた。

 

「これより当屋敷において、珍しき武芸をご披露申し上げます。悍馬の血を取る秘術にござれば、是非とも御見物にお出でくだされませ」武芸好みの久隆はすぐさま招きに応じて四郎右衛門の屋敷へやって来た。

四郎右衛門はこの奥義を伝授すると、主君久隆を宴席に招待して、毒を盛った。久隆は相好をくずして饗応にあずかったが、帰城して翌日になると急に腹痛を訴え、四苦八苦の末亡くなった

 

嫡子の与三郎家久が備前岡山城下から名のある医者を呼んで死体を調べさせると、河原屋敷で毒を盛られたことが判った。「それ、者共、四郎右衛門を召し取れい!」だが、四郎右衛門は郎党や門人とともに岡山城下へ立ち退いた後であった

 

宇喜多の手により伊賀久隆を謀殺せしめた隆景の策略で、虎倉合戦の加茂崩れの汚名を雪いだのである

 

毛利勢は児島湾の制海権を掛け、羽柴・宇喜多勢と激突することになる

 

 

直家が築いた石山城本丸跡と推定される場所

 

 

 

「宇喜多直家:直家の死と八浜合戦」へ続く