備中勢中央軍の石川左衛門尉久孝である。彼は右翼先陣の荘元祐と打ち合わせたとおり、上伊福村の中道から岡山城の北の瀬を渡って原尾島の西へ進んで来たところで、明禅寺山に上がった火煙を見た

 

「これは・・・」と思って、進軍を止め様子をうかがっていると、今度は南東の方角で銃声の音がして、喚声が上がっている。

物見の報告で右翼軍が敗走を始めたことを知った直ちに久孝は作戦会議を開くため、中島加賀ら重臣たちを招集した

「今から明禅寺山へ押し寄せても勝利は覚束無い。上の手の総大将三村元親殿の軍勢と合体して沼城を襲うのが得策と思うが、どうか?とりあえず敵勢の接近せぬうちに西大川の西岸へ退却して川の堤防を楯に、渡河してくる敵軍を討ち取るのが上策と思うが如何?」

 

久高の提案に、中島加賀がすぐさま賛同したが、賛成せぬ重臣たちが多くなおも評定を重ねているうちに、花房助兵衛・河本対馬の二将に率いられた宇喜多軍が、この石川勢めがけて攻撃をかけてきた

評定中の石川勢は、不意を衝かれて大混乱に陥った。重臣の中島加賀はじめ、多くの将兵を討ち取られた。泥縄の作戦会議など言語道断である。

宇喜多軍は緒戦の勝利で気勢があがっている。まさに破竹の勢いであった。久孝の軍勢は竹田
村(現岡山市竹田)の東まで追いつめられて、やっと態勢を立て直す始末であった。

 

 

最後は左翼の総大将三村修理亮元親の軍勢である。元親はこの日の朝巳の刻に釣の渡しを越え
て、中島大炊介の先導で湯迫村(現岡山市湯迫)より山沿いの道を四御神村(現同市四御神)へ出た。

元親はここから土田、古都宿を突破して沼城を襲うつもりであった。途中で元親は金川城の松田軍に退路を断たれることを恐れて、須々木豊前に手勢を与えてこれに備えさせた。

金川城主松田元輝は宇喜多直家と同盟を結んでいる

 

ところが四御神村までやってくると、右手の明禅寺山で火煙が上がっているのが見えた。おまけに中央の石川勢も宇喜多軍に攻撃されて退却している模様である。「なんと、味方が敗退しているではないか!!

圧倒的な大軍を擁して出陣し、必勝を信じていただけに、大将の目が届かない後続部隊で動揺が起こった。早くも逃げ支度を始める者たちがいる。だんだんと騒ぎが大きくなる。

さすがに先頭の旗本精鋭部隊は少しも備えを乱さなかったが、後陣の乱れを見て元親は作戦を変更した。物見の報告では、直家の本陣は明禅寺山の西方、小丸山にあるというのだ。「作戦変更じゃ!」侍大将が怒鳴った。

「御大将の下知なるぞ。これより明禅寺山へ向かい敵の本陣小丸山を襲う!者共、つづけ!!

各部隊の侍大将は、大身の槍を抱えて、馬首を右にめぐらし、先頭切って駆け出した。動揺していた後続部隊の騒ぎがおさまった。

「者共、つづけ!他部隊におくれをとるでない!!」三村軍は怒濤の如く明禅寺山めがけて駆け出した

 

「してやったり!三村の小伜元親め、われらが仕掛けた罠にかかりおったわ!!」

小丸山の山上からこれを観望していた直家が雀踊りして叫んだ。

直家はこのとき、敵の進路を阻む古都宿をほとんど空にして本陣を小丸山へ移動していたので、三村軍が沼城へ直撃することを危惧していたのである。杞憂は吹き飛んだ

「ふむ、これで沼城に残したお福も死なずにすむわい」

直家は心の中で快哉を叫ぶと、本陣を小丸山から高屋村へ下がらせ、すぐさま白兵戦の構えをとった。

最前線には強豪をもって鳴る岡剛介の部隊を置き、後陣には先程国富村で荘元祐の軍勢を破った富川・長船・延原の部隊を待機させた

 

高屋村の宇喜多本陣を眼前にして、元親は侍大将と並び先頭かけて采配を打ち振った。

正面なる敵は、われらが先代家親様の不倶戴天の仇敵なるぞ!者共、突進して、これを討ち取れ!!」「突っ込め!!

怒号を発しながら、元親はまっしぐらに馬を走らせて行く。つづく三村の将兵はこの大将に触発されて、それぞれ真一文字に攻めかけたので、先陣の岡剛介の軍勢が勢いに呑まれて崩れたった。

 

先陣を突き破っていよいよ仇敵直家の陣所へ切り込もうとしたとき、後陣にひかえていた富川・長船・延原の軍勢が得たりや応と、迂回して横合いから元親と旗本の陣めがけて攻めかかった。

横あいから鉄砲を撃ちかけられ、死傷者が続出しうろたえるところえ、槍先をそろえ突撃されては、応戦の手段もなかった

「おのれ、小癪なかけひきをしくさって!」三村の士卒は必死に防戦する。

崩れかかった先陣の岡剛介の軍勢が息をふき返した。

いまぞ!」と直家の旗本衆も前に出る。
三方から三村軍を挟撃する格好となった。旗本を直撃されて今度は元親自身が危うくなった。

「南無・・・」狼狽しながらもさすがに一軍の大将。元親は討死を覚悟してなおも直家の本陣めがけて突進しょうとしたが、家臣の一人が馬の口に取りついて馬首を西に向けかえた。

 

無念の思いの元親は馬上で地団太踏んだがどうにもならぬ。そのまま竹田村の北まで敗走をつづけた。ここでも三村軍の敗北である。追撃する宇喜多軍の討ち取った首級は、その数を知らず。

「増長して、敵を深追いすることは禁物ぞ!敵に策があるやもしれぬ。前進をとめい!!」

直家はどこまでも追撃しようとする味方の長追いを制して、素早く軍勢をまとめ態勢を整える。そのあいだに、命からがらの三村軍は釣の渡しに殺到し、ほうほうのていで備中領内へと逃げ帰った

 

直家の捨て身の作戦は成功し、四倍の敵を撃破する大戦果をあげたのである

 

 

石川左衛門尉久孝

石川氏はもともと幸山城(都窪郡山手村西部)城主として、この地方の旗頭として栄えていた。三村元親の重臣石川左衛門尉久孝は、当時注目されてきた新兵器鉄砲に対処するために新城を築いたのが、備中高松城である。

清水長左衛門尉宗治はこの久孝に仕えていて、久孝は宗治の力量を信じ、娘を嫁にやり、幸山城をまもらせた。(以後は備中高松城を参照)

 

備中幸山城の画像

 

中島大炊介元行

賀陽郡阿曽郷経山城(現岡山県 総社市黒尾)の城主。通称は大炊介妻は清水宗治の娘

備中高松城が包囲された際、城主清水宗治とともに副将として元行も籠城して抗戦した(備中高松城の戦い)。

長期間に及んだ籠城戦は、宗治の切腹を条件として秀吉と和議が結ばれた。開城後、元行は宗治の嫡子源三郎(景治)の後見をする

小早川隆景が筑前名島に移ると、清水五郎左衛門(清水景治)と元行、元行の嫡男義行は小早川家に召しだされ仕官した。隆景が死去すると皆、小早川家を退去し、景治は毛利輝元に仕え元行と義行は、小寺村で帰農した

義行は関ヶ原の戦い後まもなく結城秀康に仕官し、義行の家系は義行の嫡男昌行の子孫が継いだ。

その後の中島氏は、浅尾藩蒔田氏り客分として処遇された

 

 

 

「宇喜多直家10」「明禅寺合戦後の備前の領主たち」へ続く