真田幸村(信繁)の嫡男・大助幸昌は正室・大谷夫人との間に生まれたが、その生年については諸説あり「真田系譜稿」には慶長七年(1602)生まれ、「仙台真田系譜」「仙台真田代々記」には慶長六年七月二十四日出生とあり。

他説には、慶長五年説、慶長六年七月二十四日説と種々あります。

信頼性が高い「駿府記」は、真田大助の享年を十三歳と記録しているので、逆算すると慶長八年生まれとあり、誤記の可能性も否めないですが、いずれにしても幸村が九度山配流中に誕生している

 

大助の事績はほとんど明らかになっていないが、慶長十九年(1614)、父・幸村、大谷夫人や妹らとともに九度山を脱出し、大坂城に入城した。

大坂冬の陣が大助の初陣と考えられ、真田丸の戦いでは、一軍を率いて城外に討って出たとする記録があるようです。

 

大坂夏の陣では、慶長二十年五月六日の道明寺合戦で奮戦し、伊達勢と戦って首級をあげたと伝わっている。が、この時、股に槍疵を負い負傷したようです。

翌五月七日、大助は父・幸村とともに天王寺口に出陣した。

合戦が始まると、幸村から大坂城に戻って秀頼公に出陣を懇請し、どこまでも秀頼の供をするよう命じられました

大助は父とともに戦うことを願いましたが、幸村はそれを許さず、戦場を離脱させたといいます。

 

大坂城にたどり着いた大助は、秀頼に出馬を要請しましたが、戦機を逸したとして秀頼側近らによって阻まれます

やがて幸村討死にの報を聞くと、大助は父の言いつけに従って、秀頼とともに自刃する覚悟を決めました。

これを見た秀頼の側近・速水守久が憐れみ、

「貴殿は譜代の家臣ではないのだから、秀頼公の最期を見届ける必要はなかろう。しかも貴殿は一昨日の誉田(道明寺合戦)の戦いで股に槍疵を負っている。もうここに留まる必要もなかろう。早々に落ち延びられよ」と諭した。

しかし、大助は肯んじなかったといいます。「大坂御陣覚書」

 

豊臣秀頼、淀殿が自刃すると、大助もこれに殉じました。その際、

将たる者は切腹に臨んで佩楯は取らぬものだ。我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と言い、膝鎧を着けたまま切腹したと伝わります。

若年でありながら、真田信繁の息子であることを誇りとし、従容として自刃し、父の後を追ったのです。

 

  

真田大助幸昌の肖像画

 

 

 

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