慶長十九年((1614)、徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、方広寺梵鐘事件の後は大御所と称して駿府城に居た。
豊臣家の使者・片桐且元に、
1、 秀頼が江戸へ参勤すること。
2、 淀君を人質として江戸へおくこと。
3、 大坂城を明け渡すこと。
 の三カ条を突き付けた。

 このような横車に対する返事は合戦よりほかになかった。たが、この時点では最も頼りになる肥後の加藤清正は死亡し、広島の福島正則もさまざまな事情から動けず、他はみな家康に屈服してしまっていた。
 賤ヶ岳・七本槍の片桐且元も大坂城を退去した。
 けれども、大坂方では座して屈辱の条件をのみ、小大名に転落するよりも、太閤が築いた天下の名城・大坂城で合戦に及び、雌雄を決する宿命を荷なっていたといえよう。

 大野治長をはじめ大坂城の諸将は開戦を決意し、家康に服従している豊臣恩顧の諸大名に檄を回し、また多数の浪人を募った。
 そして、慶長十九年(1614)十月初旬、九度山で不遇を託っていた信繁のもとにも大坂城からの使者がやって来た。
秀頼の使者には明石掃部介(備前家中騒動で崩れた宇喜多家を関ヶ原合戦では宇喜多軍を一人で支えたが敗戦後浪人:過去記事宇喜多秀家参照)が選ばれた。いち早く大坂方の召しに応じて入城した高名の浪人であった。
真田屋敷を訪れて、秀頼の十万石のお墨付と入城依頼状を差し出し、信繁に豊臣方へ味方するよう懇願し、当座の支度金として黄金二百枚・銀三十貫を贈った。
信繁は、依頼状を読み、お墨付をうやうやしく押し戴いて、
「明石殿、ご高名はよく存じております。このようなお墨付はいりませぬが、秀頼公のお心がこもっておりますゆえ、ありがたく頂戴いたしまする。このようなものをいただかなくとも、故太閤殿下のご恩が忘れられず、馳せ参ずるつもりでおりました。父昌幸の遺命もあり、信繁が入城しました以上、家康めをそのままにはしておきませぬ」信繁は昂奮して、血が躍るのを感じた。
「真田殿のご心中、とくと秀頼公に申し上げましょう。使者としての役目を果たすことができて・・・誠にかたじけのうございます」と、明石掃部介は頭を下げた。

 翌日、信繁は近辺および諸方にいる郎党に触れを回して招集した。触れに応じて百五十人ほどが集まった。この中には九度山の農民の二男・三男も交じっていたという。
 姫路からは穴山小助や山本九兵衛も駆けつけてきた。あとからまだ、五・六十人は大坂城へ直行する手筈が整った。
 出陣の祝賀会は居室の襖を取り払って盛大に催した。もう和歌山の浅野幸長にわかっても十分な勝算があった。席上信繁は言った。
「この地を引き払うについて、格式を立て白昼堂々と和歌山の城下を通って大坂城へ入城しようと思うが、みなの意見を聞かせてくれぬか」と、少し無茶を言った。
「父上」大助が口をきった。
「浅野はわれわれが抜け出したときの準備に怠りはないと思います。城下を通れば四方から攻められ、われらは敗軍となるでしょう」家来たちの意見を代表したものだった。
「そのように考えるのが普通だ。しかし、われらが小人数で悠々と通れば、なにか謀計があると考えて容易に手は出すまい。」百戦錬磨の父のことだ。言う通りにしよと、大助は思った。
「家康の眼が光っているから、一応追い討ちだけはかけて、面目を保つに違いない。そこがつけ目だ。張抜筒で追い払えばよい」 
「なら、わたくしには異存はありませぬ」家来たちにも異論はなかった。

 慶長十九年(1614)十月十五日、真田勢は九度山の屋敷を後にした。
 信繁は紺糸縅の鎧に筋金を打った兜を着用し、正宗(一説では)の太刀に貞宗の脇差をたばさみ、信濃産の鹿毛に跨り、二間一尺の皆朱の槍を脇に抱えるといういでたちであった。
 倅の大助は「卯の花縅の鎧を着け、紅粉綾の布で鉢巻をし、緋羅紗の陣羽織を引っ掛け、同じく鹿毛の荒馬に乗っていた。
 この二人を囲んで百五十余人が先頭に六文銭の旗をなびかせ、しずしずと和歌山の城下を通りかかった。

 城兵たちは打って出ようとしたが、上田主水と亀田大隅両人が制した。真田勢はゆうゆうと城下を通り抜け、松原を通り紀の川を渡り、新在家に至った。
 はたして城兵一千あまりが上田・亀田らを先頭に追撃してきた。家康に対する手前一応追い討ちをかけてきたのだ。
 そこへ真田勢の張抜筒が五門一斉に火を噴いた。黒煙のなかで百人あまりが吹っ飛ばされて即死した。
 上田・亀田は泡を食い、「退け、退け!」と退却しはじめた。またそこへ五門の張抜筒が撃ち込まれ、百五十人ほどが討ち倒された。
 紀州勢は震えあがって、全軍ばらばらになって逃げ出した。
 真田勢の軍勢たちは、主将信繁の武略と見透しに感心しないではいられなかった。
 それから真田勢は岸和田を通過して天王寺に着くと、城から明石掃部介全登と和久半左衛門が兵三百余人を連れて迎えにきていた。

 秀頼も城外まで出迎え、信繁はじめ一党を城の千畳敷きの広間に通して、慇懃に接待した。



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二の丸と外堀の完成した天正十六年(1588)段階の大坂城