真田昌幸と徳川家康が豊臣秀吉に従属すると、秀吉は北条氏にも従属するよう交渉を始めた。北条氏政は上洛のための条件の一つとして沼田領問題の解決を求めた。
天正十六年(1588)春、秀吉は真田・北条・徳川三氏の言い分を聞いて裁定を下した。その裁定は、
1、 沼田城を含む沼田領三分の二を北条領とする。
2、 名胡桃城を含む三分の一は「真田墳墓の地」であるという由緒を考
慮して真田領とする。
3、 真田が失う沼田領三分の二相当の知行は、徳川家康が替地を保証す
る。
というものであった。
この裁定には、北条氏も真田氏も不満であったが、同年六月双方とも秀吉の再提案を受諾し、七年に及ぶ懸案はついに解決された。
秀吉は七月、上使を派遣して沼田領割譲を行わせ、沼田城には北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が入り、一方昌幸は旧沼田領の三分の一を統括する拠点・名胡桃城に、鈴木主水を配備した。
そして家康から沼田領の替地として信濃国伊那郡箕輪領を与えられた昌幸は、沼田領割譲によって知行を失った家臣に対して箕輪領内で替地を充て行う作業を、天正十六年十一月三日、長男の信幸に始めさせた。
これが沼田領問題の経緯です。
ところが、作業を開始したその日に、沼田城代・猪俣邦憲による名胡桃城乗っ取り事件が起こったのである。
名胡桃城将だった鈴木主水は、自責の念から沼田城下の正覚寺で自刃した。享年四十二歳であった。
この事件は、北条氏滅亡に直結する一大事件にもかかわらず、確実な史料が乏しく、今も謎に包まれている。
この名胡桃城事件の情報は、その日のうちに嫡男の信幸から家康のもとに報告されて、家康もただちに秀吉に報告した。(昌幸は家康の与力大名なので、秀吉への上訴は徳川氏を通じて行われるのが原則だった)
昌幸は当時上洛中で秀吉のもとにいた。次男信繁も人質として大坂に居住していた。
怒った昌幸は、ただちに秀吉に北条氏の非道を訴え、秀吉も自身の裁定を軍事力で破った北条氏に怒り、遂に小田原出兵を布告したのである。
北条氏はこの事件により、滅亡へ追い込まれることになった。
位置関係図
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