武田勝頼は三月十一日、天目山の麓に追い詰められて一門とともに自刃した


 真田昌幸のもとへは草の者(忍び)からたえず報告があり、最悪の戦況を憂慮していたが、天目山の麓に籠ったというので、昌幸は四百人の兵を連れ山越えに天目山へ急いだ勝頼を岩櫃城へ迎えるためであった。だが、間に合わなかった。


 途中で勝頼の二男・七歳の勝千代を伴って逃れてきた直臣・小宮山数馬に出合った。数馬は勝千代を守り育てて武田家を再興してほしいという勝頼最後の言葉を昌幸に伝えた
 また、家人がみな四散してしまい、武士は小者まで合わせて四十人ほどになってしまった末路も話した
おいたわしや、あれほど武威を誇った名家の武田家が・・・」昌幸は涙を流した。




 戦国は変転が早い。ほんのわずかな間にすべてが変わってしまうのだ。昌幸は急いで引き返さねばならなかった。昨日までの味方が敵になり、どこで行く手を遮るかわからない


 道を急いで三国峠にかかると、越後の上杉景勝が三千あまりで道をはばんだ

謙信の死後養子の景虎と謙信の甥の景勝が世継ぎ争いの合戦をし、景勝が勝って上杉家の当主になった。その正室は勝頼の妹であったが、勝頼が滅びると敵に回ったのだ

「なにほどのことがある。踏み破れ!」昌幸の命に応じて、別木勝蔵・沼田小新らが峰を駆け昇り、あとに真田勢が続いた。

 だが、上杉勢五百あまりが斬り込んできて、真田勢はたまらず後退した


昌幸が峰を見上げると、弓・鉄砲の備えが整然として、旗指物が山風になびいている様子は謙信の布陣と少しも変わらない。謙信薫陶の多くの武将がおり、その軍法は乱れも見せていなかった

どうするか、昌幸が困った顔をした時、上杉軍への使者を買って出たのが、昌幸と同行していた十四歳(生年には3年の異論がある)になった二男の源次郎(与三郎)信繁であった

彼は小姓一人を連れて景勝の陣に出かけて行き、たちまち通路を開かせたのである。昌幸はその口才に感心したが、信繁はなにも語らなかった。




真田勢は三国峠を難なく越えて道を急いだが、今度は北条氏政が四万の兵を擁して道を阻んだ

氏政は信長・家康に味方して、昌幸を打ち留めようとしていた。

幸はこれまで北条氏政の上野制圧の野望をさんざん苦しめて来ていたので、昌幸にとって最も恐るべき相手であった

昌幸は信繁を呼んで相談した。すると信繁は一計を父にささやいた

そうか。そういたそう」昌幸はこの謀計に賛成し、すぐ実行に移した。


 北条方の松田尾張守の紋所、永楽通宝の銭形を描いた旗を荒川内匠の一隊七十人に持たせ、同じ紋の指物を同行している長男の源三郎信之及び信繁・布下弥四郎・穴山岩千代らの各隊の者たちの襟に差させた。

 松田尾張守は北条家中では謀叛の噂の絶えない武将であったこうして、真夜中に法螺貝を吹き、鉦を鳴らしてどっと攻めかかった


 北条軍は篝火の明かりで旗や指物を見て、尾張守の謀叛だと思い狼狽し、次々に大軍の部隊内に移った。
 その隙に真田勢四百人の小部隊は敵を避けて通り抜けたのだった

 上田城に引き揚げた昌幸は、これを信繁の初陣の手柄として家中に触れさせ、この吉縁にちなんで、それまでの雁金の真田紋を六文銭に改めた




 真田昌幸は、武田氏滅亡前後に帰属交渉を行っていた北条氏との関係を突如断ち、織田信長に臣従した。その理由は何であったのか。

 いうまでのなく、武田氏をあっけなく滅亡させた織田氏の威勢が背景としてあり、北条氏政すら信長との関係が良くなるよう、婚姻等により同盟を祈念していた。

 また、北関東や東北の諸大名も信長との関係緊密化に動き出し、北条氏に帰属していた武蔵国松山城主・上田氏、忍城主・成田氏、深谷城主・上杉氏も織田氏に従属することを申請していた。


 さらに信長は天正十年(1582)、織田信房(信長の五男で犬山城主)を主将として、団忠正・森長可らで編成された軍勢を上野に派遣し

たが、これを知った国峯城主・小幡信真、安中城主・安中七郎三郎ら上野国衆は雪崩を打って織田軍に降伏し、人質を出して臣従の礼を取った

 なんと昌幸と北条氏との折衝を仲介していた長尾憲景までが、北条氏を離れて織田氏に帰属する有様であった

 こうした情勢下で、昌幸も北条への帰属を翻し織田氏に臣従したのである




 信長は昌幸の帰属を受け入れ、織田家重臣の滝川一益の与力とした。信長は旧武田領国の分割を実施し、勝頼滅亡の最大の功労者である滝川に、上野一国と信濃国佐久・小県郡を与え、東国取次の地位に据えたのである。

 昌幸は信長の命により、保持していた沼田城と岩櫃城などを一益に明け渡した

 昌幸は新たな主君・信長に黒葦毛の馬を贈って臣下の礼を取り、信長はこれを喜び、四月八日付で昌幸に礼状を送っています。


 こうして真田家は織田家臣として再出発することになったのである










  「真田昌幸12」「本能寺の変とその後の真田家」