総大将の三好秀次は潰乱のうち、秀吉正室おねの父、木下助左衛門祐久とおねの弟、勘解由左衛門利匡の討ち死のなか、徒歩で遁げ帰った。
なお、この戦いのとき本田忠勝が、わずか五百の兵で八万の秀吉本隊にあたり、家康のために時間かせぎをしたことは有名で、鹿角の兜をかぶり名槍・蜻蛉切りを振りまわして、秀吉本隊を牽制している。
また、信輝が家康の旗本永井伝八郎直勝に首級を授けたのは茗荷畑であったので、池田家では以後、茗荷(みょうが)は食膳に供しないという。
以上が池田信輝・之助父子の討ち死した長久手の戦いであった。短時間の決戦ではあったが、池田勝入信輝の最後を鮮明に記録しているものはないとあります。
池田信輝には之助・輝政・長吉のほかに、一男四女があった。
四男長政:九歳のとき輝政の家臣・片桐半左衛門の養子となり、慶長
十一年(1606)備前児島下津井城の城代となり、翌十二年卒。子孫は池田家家老(二万二千石)。
一女 :森武蔵守長可に嫁し、のち中村式部少輔一氏に再婚する。
慶長四年卒。
二女 :豊臣秀次室。慶長六年卒。
三女 :山崎左馬允家盛に嫁し、のち離別して実家に帰る。
寛永十三年卒。
四女 :浅野紀伊守幸長室。元和二年卒。
次男の輝政は通称三左衛門で、天正十二年末に父の遺領を承け大垣城主となり、ついで翌年岐阜城主十万石を領し、同十五年には秀吉に従って島津征討に加わり、羽柴姓を称することになり、翌十六年侍従に任じられた。
天正十八年には小田原征伐・奥州征伐に参戦し、その行賞によって岐阜城から三河国吉田(豊橋)城に移り、東三河四郡で十五万二千石を領し吉田侍従と称した。
輝政の室、中川瀬兵衛清秀の娘糸子は、天正十二年に長男利隆を産んだあと、産後に発病したため実家に帰された。
それから十年後の文禄三年(1594)には、家康の二女督姫富子を継室に迎えている。富子は初め北条氏直に嫁したが、小田原没落後は「小田原後家」として輝政に再嫁した。
これにより輝政は家康の婿となり、池田家は徳川家の親族となった。輝政には中川氏との間に長男利隆があったが、継室富子(良正院)と
の間には忠継・忠雄・輝澄・政綱・輝興の五男、および二女(伊達忠宗室、京極高広室)を儲けた。
良正院富子は、元和元年(1615)二月伏見で卒去し、京都知恩院に葬られた。享年五十歳。
現在の吉田城の規模に拡張したのは池田輝政といわれている
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