一の太刀を疑わぬ無念無想の剣



 示現流は、天正十六年(1588)、第十六代薩摩藩主・島津義久に従って上洛した東郷重位(ちゅうい)が、曹洞宗万松山天寧寺を訪れた際、住職の曇吉(とんきち)禅師に紹介された善吉和尚に、天真正自顕流の奥義を伝授されたことに始まる



 天真正自顕流の開祖は、十瀬(そせ)与三左衛門で、善吉和尚はその三代目の継承者にあたるが、父の仇討ちを果たした後、俗人として生きることを捨て仏門に入ったという経歴の持ち主である。


 東郷重位は、もともと待捨流の達人で当時二十八歳。天真正自顕流の奥義を伝授されたのは、それから約半年後のことである

 鹿児島へ帰郷後、重位は第十八代藩主島津家久に認められ、藩の剣術指南役に命じられた法華経からとって「示現流兵法」と改名した


 武名は遠く江戸の徳川家光にまで伝わり、招聘を受けたほどであった。
 ちなみにこの時、何故か家久によって死んだことにされ、以後薩摩を出ることなく、門弟の指導に専念することになる。



 一の太刀を疑わず、二の太刀は負け・・・。これは示現流とはいかなる剣術であるのかを、端的に表す言葉である。

 示現流とは、初太刀にすべてをかけて敵に突撃する剣術である。二の太刀などは存在しない。ということなのだ



 初太刀は恐怖を超越した意地の一刀であり、重位は「三千世界の地の底まで届くように斬れ」と教えた。
 これが新選組の近藤勇をして「薩摩の初太刀をかわせ」といわしめた、袈裟斬りの正体である


 しかし示現流の真の凄さは、実は刀の鍔に集約されている。防御機能を最小限にとどめた小さな鍔

 そこには、もとゆいで鞘に結ぶための穴が開けられていた。つまり、脇差でもとゆいを切らぬ限り、刀を抜けぬよう自ら剣を封印したのである



 示現流が刀を抜くのは、ただ一撃必殺の覚悟で死を極めた時のみである。刀を抜かざる境地こそが示現流の極意であり、重位の美学だったのではあるまいか。


 重位は生涯において、四十余度の立ち合いを行い、うち十余人は家久公の命により上意討ちを行っている。そして一度も敗れることなく敵を斬り伏せているというから、その強さのほどがうかがえる




 示現流の修業は、地面に立てた丸木を袈裟懸けに打ち下ろす「立木打」の稽古から始まる。

 ユスと呼ばれる木の丸棒を持ち、立木に駆け寄り裂帛の気合いと共に打ち下ろす。直径15センチほどの丸木は、数か月で両側が細く削れてしまう。かつては「朝に三千、夕に八千」といわれ、ひたすら立木打ちを繰り返して斬撃力と胆力を練ったという。


 立木打ちで鍛え上げた地力こそが、示現流の強さの根幹である



 示現流で基本となる構えは、八相に似た「蜻蛉」の構えである。「右手に棒を振り上げ、これに左手を添えた姿勢」と教えられる。左肘は体につけて離さないようにする。

 この姿勢から剣を下ろした姿勢を「置蜻蛉」左を上にして構えた姿勢を「逆蜻蛉」という

 足は左足をやや前に、斬り込む瞬間足全体を地面に打ち込む。稲妻の如き剣は、剣と体を一致させた蜻蛉の構えから生まれる。とある




 示現流では初度・両度・初段・二段・三段・四段と、明確に段階が分けられている。武道の修業で段位の称号が現れるのは、示現流が最も早いかもしれない

 重位が善吉和尚から授かったのは、初段以降に学ぶ十二本の技であったという。なかでも最初に学ぶ「燕飛」は最も長い形であり、十二本の技の要素を全て含んでいるという。


 示現流では打太刀をダシ、仕太刀をツケと呼ぶが、燕飛のダシは待捨流の太刀筋だという

 重位と剣術師範を争った待捨流を仮想敵としている点も、示現流の実践性を見るようで興味深い。



 東郷重位は、藩主家久公から肥後守と千石(うち六百石は返上)を賜り、以降、示現流は藩校で教えられる御流儀として、もっぱら薩摩の上級藩士の教育に寄与することになっていった


示現流の薩摩拵




薬丸自顕流」へ続く