中岡慎太郎は四本の「時勢論」を書き残している。

 その中では、武備を充実させ、上下一致の国体を実現せよという。そのためには将軍がその政権を朝廷に返上するのが第一であって、諸侯としてはこれを幕府に忠告するのが真実であろうといっている

 さらに兵制改革を強調し、非常の覚悟を固めるべきだと力説している。

 新太郎は良師に恵まれた。高松順蔵、武市瑞山、桃井春蔵等々との出会いと、本人の胆略があった





 慎太郎の生涯を見るとき、実に献身的な人である。

農民のために献身した庄屋であり、勤皇党のために献身した青年であり、尊皇倒幕のために献身した志士であり、薩長連合のために献身した政客であった

このように生きた慎太郎は文武両道の人であった


盟友坂本龍馬は高知城下で小栗流剣法を学び、筑後柳川藩士・大石進によって嘉永年間に、薙刀術より編み出された長刀術を習い、千葉定吉道場で授けられた「北辰一刀流長刀兵法」の「家流始之書此一巻」が残されている。

しかし、中岡慎太郎と剣については、遺された剣の兵法書はこれまで発見されていないようだ




慎太郎の姉「かつ」の夫は郷士北川武平次であり、慎太郎生家の北隣りが屋敷で、武道場があった

武平次は特に居合術に優れていて、京都警備の土佐藩士に居合術の師範をして、明治天皇の御前試合では優勝して、白鞘の刀を下賜されている

多感な少年慎太郎は議兄武平次の影響を受け、この道場で剣に目覚めてゆくのである。


続いて慎太郎が剣を学ぶのは、十四歳頃から南学を学んだ安田浦の郷士で、小埜(しょうや)と号す高松順蔵である

高松順蔵は、松村茂達に入門して長谷川流居合術(無双直伝英信流)の奥儀を極めた人物である。

また、南学安田派と称されるほどの学閥を誇っていた順蔵は、山内容堂からの再三の召出しにも固辞して受けず、諸方の名所旧蹟を巡遊して和歌を詠み、学者や文人と交わった。

なお、順蔵の妻は坂本龍馬の長姉「千鶴」である。慎太郎はここでも文武両道を学びとっている。





安政二年(1855)七月、藩校野学館で慎太郎は武市瑞山に出合い、深く傾倒してゆくことになる。

武市半平太が江戸に出て桃井春蔵の門に入るのは文久元年(1861)三月頃であるが、中岡慎太郎もこの頃江戸に居て、九月まで桃井塾で剣術修行に励んでいる

また、岡田以蔵など尊攘志士も入門していた。




薩長連合を着想し、周旋し推進していった中岡慎太郎であるが、さらに維新の原動力となる三条実朝・岩倉具視両卿の手をにぎらせてもいる

田中光顕は、

「坂本先生の名がもっとも広く世に伝えられています。しかし、私はその識見において、またその手腕において、中岡先生の方がはるかに優っていたと思います。維新の原動力が三条・岩倉両卿にあることを見抜き、二人の手をにぎらせたのも先生であります。坂本・後藤に先だち、政権を朝廷に返さねばならんと言うたのも先生であります・・・」

 と銅像除幕式の時に語っている。


 昭和五年の北川村柏木での顕彰除幕式でも田中光顕は、

「先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現われると、先生が行けば一時間の猶予も必要でなかった。一時間以内に、意のままに説き伏せて帰って来た」

 とも語っている。これこそ中岡慎太郎が文武両道の人であったことを称える言葉であろう

 しかし、田中光顕は陸援隊士であったので、少し誉め過ぎかとも。






 陸援隊は慶応三年(1867)七月二十九日、土佐藩京都白川屋敷で発足した。

 発足にあたり中岡がもくろんだのが、土佐藩に志士を保護させ、かつ浪士隊を結成し倒幕戦を準備すること。隊士は約七十名といわれ、薩摩藩の鈴木武五郎のより様式銃隊訓練なども受けていた


 しかし、中岡・坂本二人の暗殺により、事態は大きく変化する。結局、実戦の機会はなかったが、鳥羽・伏見の戦いが終わり明治元年(1868)、正月に京都に入った時には、十津川郷士などを吸収し、千三百十八人もの大集団となっていた


 入京に先だって錦旗・勅書も受けており、十津川郷士を除く全員が親兵に編入され、二条城に詰めることになり、陸援隊は発展的に解散することになったのである


 田中光顕は、昭和初期まで軍人・政治家として活躍した。第三次伊藤内閣では宮内大臣に就任、以後十一年その職にあり、宮中政治家として一時代を築いた


         

         文武両道をうかがわせる慎太郎像





       



     「心形刀流・伊庭道場」へ続く