火を吹く南蛮砲!押し渉る毛利水軍



 毛利氏が北九州経略の拠点としたのが豊前門司城である。

 門司城は最初大内氏が築いたが、弘治3年(1557)に大内氏が滅亡すると大友義鎮がこれを収めた


 すると、翌永禄元年6月、元就の命で小早川水軍を主力とする毛利軍は、関門の要害門司城を攻めて大友の将、怒留(ぬる)主人らを追い、仁保右衛門大夫隆慰(たかやす)を城将として三千の兵を配置した



 そこで、義鎮は毛利の侵入を阻止するため猛反撃に出る。

 翌永禄2年9月、田原親宏・同親賢らの率いる大友軍は大挙して門司城を攻撃し、城将仁保右衛門大夫を追い城を奪回した



 門司城陥落の急報で元就は、直ちに長男隆元を防府に派遣し、松崎天満宮に本陣を据えて指揮をとらせ、三男隆景を先鋒として奪還を策した。

 当時、二男元春は山陰の計略に忙しかったから九州の軍事は、隆景が水軍を指揮して長兄隆元を補佐していた。


 隆景は麾下の水軍を指揮して、浦兵部丞(乃美)宗勝を門司と小倉の中間に上陸させた。

 宗勝は上陸地点から東進して門司城に迫り、負傷に屈せず敵首数百級をあげて門司城を奪い返した

 こうして門司城は再び毛利軍の手中に帰したのである



 大友軍はなおも城の付近に集結して奪回をはかったが、宗勝は毛利水軍の提督児玉内蔵丞就方と共に豊前の東岸中津に上陸し、大友軍と豊後の連絡路を遮断した。 

 そのため大友軍は糧道を断たれて、ついに撤退した。




 だが、これくらいのことで諦めるような大友義鎮ではない。なおも門司城奪還の望みを捨てず、永禄4年(1561)になって、いよいよ本腰を据えて奪回作戦に乗り出した。

 永禄4年8月、義鎮は武将吉弘加兵尉に兵一万五千を与えて城の西方約12キロの豊前小倉へ進出させ、門司城を陸上から攻撃させるとともに、当時府内に碇泊中であったポルトガル船数隻に海上から門司城を攻撃するよう依頼した




 すなわち、異国船に大砲を積み込ませ、門司城の海域へ急行させると、海上からいきなり門司城めがけて大砲をぶっ放させたのである

 殷々たる砲声は海面に轟き、門司城の周辺で炸裂する砲弾は城兵の耳を劈くばかりであった。

 命中した砲弾で城壁や櫓は飛散し、たちまち城中は兵士たちの鮮血で紅に染まった

 初めて見る南蛮兵器の威力に、城兵一同は戦慄して生きた心地がなかった


 ところが、このポルトガル船はどういうわけか、初回の攻撃で砲弾を撃ち尽くすと、そのまま関門海峡から退去し二度とこの海域には姿を見せなかった。門司城は危いところで落城の悲運から免れたのである[鎮西要略]





           手前が赤間関:中央の山上が門司城本丸




「大友義鎮の野望と挫折」3「門司城攻防戦」後篇へ続く