10月4日に呉市下蒲刈島にて行列を見学しました。
江戸時代に外交使節団の朝鮮通信使が寄港した呉市下蒲刈町で4日、通信使再現行列(蘭島文化振興財団、呉市教委、中国新聞社主催)があった。行列保存会などの地元住民や韓国の高校生たち総勢250人が、当時の歴史画を基に復元した衣装などに身を包み、石畳2キロを練り歩いた時の画像を掲載します。
「江戸期の通信使の歴史」
対馬藩の努力によって慶長12年(1607)、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され6月29日(5月6日)、家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は回答兼刷還使とされている。
秀吉による二度の朝鮮の役で、日本に連れ去られた儒家・陶工などの捕虜を朝鮮に連れ帰るのが主目的の訪日であったようである。
その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、徳川幕府から通信使派遣の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。
通信使は釜山から海路対馬に寄港し、それから馬関を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取った。
その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。
江戸期に計12回の通信使が派遣されている。
幕府からの返礼使は対馬藩が代行した。
文化8年(1811)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。
「画像1」
先頭が来ました
演奏のパフォーマンス
演奏しながら行進
港の前で一礼
愛想の良い娘さん
演奏中
廻りながらの音楽隊
勢揃い
1,5キロメートル先の中学校まで行進
案内役の対馬藩士たち
神妙な藩士たち
通信使の旗持隊
朝鮮王朝の官僚
楽人隊
韓国の高校生たち
女子高校生たち
港に伝馬船が入って来ました
中央に殿様らしき人がいます
殿の御着きです
ここで私のカメラはバッテリー切れで終了します。
後日、友人が撮影した画像を(CD-RWにお願いしている)掲載します。