[武林唯七隆重]


 Wikipediaより

 武林隆重寛文12年(1672)-元禄16年2月4日1703年3月20日)は、赤穂浪士四十七士の一人。通称は唯七(ただしち )。父は渡辺平右衛門式重。母は北川久兵衛の娘。赤穂藩では、中小姓、15両3人扶持。


 唯七の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省抗州武林に生まれ、医学を学んで育ったという。

 日本へ連行されたあとは長州毛利家に身柄を押さえられた(一説に戦争捕虜ではなく、長州へ漂流してきたところを毛利家に捕まったのだともいう)。毛利家、さらにその後には浅野家に医学を持って仕えるようになり、日本の士分に取り立てられて、故郷の「武林」を氏として「武林治庵士式」と改名した。さらに日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の氏をとって「渡辺治庵」と改名する。

 その間に生まれた子が唯七の父の渡辺平右衛門式重である。平右衛門には男子が二人あり、兄の渡辺半右衛門尹隆が渡辺家を継ぎ、次男の唯七は分家することになったが、この際に祖父がかつて使った「武林」を家名として使うこととし、「武林家」を再興したのである。


 討ちいりの際には唯七は表門隊に属して屋内に突入した一人である。しかし1時間あまり、赤穂浪士たちは屋敷をくまなく探索したが、吉良上野介は見つからなかった。

 明け方ちかく、唯七たちが炭小屋に矢を射掛けると、二人の敵が飛び出してきた。敵を斬り捨てると、隠れていた白髪の老人が脇差を抜いて飛び出してきた。

 間十次郎が初槍をつけ、唯七が斬り捨てた。合図の笛が鳴らされ、内蔵助たちが駆けつけ、死体をあらためると額と背中に松之大廊下で内匠頭が斬りつけた傷があった。吉良上野介に相違なかった。十次郎が首をはねた。唯七は二番太刀であった。


 唯七は毛利甲斐守の上屋敷へ預けられた。元禄16年(1703)2月4日、幕府の命により毛利家家臣鵜飼惣右衛門の介錯により切腹。享年32。名は、刃性春劔信士。

 弟が本懐を遂げて切腹した後、兄の渡辺半右衛門尹隆は両親の看護のための脱盟で、不忠臣ではないことが知れ渡っていたので、赤穂義士の兄として広島藩浅野本家に招かれた。

 この際に渡辺の氏から弟の武林の氏に変えて「武林勘助尹隆」と名乗るようになった。

 正徳3年に大石内蔵助の遺児大石大三郎が広島藩に召抱えられることになった際には、彼が大三郎のいる豊岡まで迎えに派遣されている。


 「唯七の祖父」

 渡辺 士式(わたなべ ことのり、生年不詳 - 明暦3年5月1日1657年6月12日)は、の人で、後に日本に渡来・帰化して武士となった。

 渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の氏をとって「渡辺治庵」と改名する。士式は広島藩浅野家に仕えていたが、子の渡辺平右衛門式重は、赤穂藩浅野家の家臣に転じている。

 明暦3年(1657年)に死去。広島の国泰寺に葬られた。

 通称は治庵。元の名は孟二寛

 孫の武林唯七は赤穂四十七士の中で一人だけ辞世の句を漢詩で残している。この祖父の故国を偲んでのことであろうか。


 「大石 大三郎」

 元禄15年(1702)7月5日、大石内蔵助良雄とその妻りくの三男としてりくの実家の但馬国豊岡藩石束源五兵衛毎公邸にて誕生。

 大三郎が12歳になった正徳3年(1713)9月に広島藩仕官が決まり、豊岡を出て広島へ移っていった。広島藩では父内蔵助と同じ千五百石の知行と広島城二の丸の屋敷を与えられた。

 明和7年(1770)2月14日に広島にて死去した。享年69。広島の鳳来山国泰寺に葬られた。松巌院忠幹蒼栄。



 「国泰寺境内の画像」


城郭と歴史雑学

正面奥の「赤穂義士追遠塔」の裏に香林院と大三郎の墓があります


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唯七の祖父「治庵」の墓


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