水野日向守勝成は福山城の築城、城下町の建設、芦田川治水と灌漑、池溝の造成などを整備して領国経営の安定拡充を図った。
全国諸藩に先駆けて、寛永7年(1630)寛永札(福山藩札)を発行する。元禄11年(1698)には水野勝岑の死去で改易されて藩札処理が行われ、発行高3,502貫890匁のうち97,5%が三割引き程度で正貨に両替され支払われた。回収札は全部が焼却処分され、領内の動揺もほとんどなかったという。
勝成は上水道の敷設事業を行なうが、江戸の神田上水道に次いで日本で二番目にできた上水道である。ある日勝成が城下を駕籠で通っている時、家中の者が水道の上をとびこえて通行しているのを見た勝成が「城下の者が飲む水道があるのに、その上を通るとはもったいないことを。水道を避けて脇を通るように」と言い、以来水道の上を通る者はいなくなったそうである。そしてこの水路が往来や商売の邪魔になるとして、町方が各戸の間口ほどの蓋石を置いたと記されている。
元禄10年(1697)8月水野氏四代藩主美作守勝種が37歳で病死したあと、生後わずか九ケ月の松之丞がその跡を継いで五代藩主になった。同年12月に勝岑と改名し、翌年藩主になったお礼を将軍に言うため江戸に向ったが、勝岑は旅中小田原を通過する頃病を発し、江戸に着いてのちまもなく5月5日に病死してしまった。そこで水野氏は跡継ぎがいなくなって断絶となり、領地は公収され多くの家臣は禄を失うことになった。
幕府は水野氏の「先祖の節目」の絶えることを惜しみ、一族の水野勝長に名跡を継がせることにした。これが結城水野氏の起こりである。禄を失った多くの家臣は、結城水野氏に仕官するといってもわずか1万八千石の小藩ではどうにもならない、大部分の家臣は浪人するか縁故を頼って帰農していった。
武士をやめて帰農するとはいっても、農民にとっては、威張っていた武士が入村して村の秩序を乱されては困るので、「御役目は百姓並に勤め、法度や村の掟を守り、いっさい侍らしいふるまいはしない」という誓書を出させ、侍はそれを厳重に守ることによって初めて入村を許されたという。
(元禄検地)
元禄12年、幕府は備前岡山藩に命じて水野氏旧領の総検地を実施した。この検地の結果、水野氏時代の新田開発や収穫量の増加などがあって、水野氏遺領10万石余が、結局15万石に決められた。(勝成は福山築城に際し幕府から莫大な借金をしており毎年きちんと返済し、四代勝種が歿する数年前にようやく完済している。この間新田開発に励んだものと思われるが、5万石五割増しの開発は不可能と思われ、幕府の命令により短い竿で測量し水増し検地をしたのではないかという説があります。)
その結果、備後北部の約4万石と備中の一部を含め5万石を天領とし、元禄13年(1700)上下に代官所を設置した。(上下は石州街道の要路にあたり、府中を経て福山へ出る街道と、南下して尾道へ出る道と、東へ行けば東城へ、さらに同じく天領で代官所のあった倉敷へ出る道との分岐点であり、また徳川幕府の金蔵ともいえる大森銀山の銀を運ぶ中継点でありました。このため上下代官所は、大森代官所の出張所的要素が強かったようです。)
元禄13年、松平下総守忠雅が山形から10万石の領主として転封が決まったが、水野氏の時と比べて実質的には三分の二に減少したのと同じで、藩財政の逼迫は容易に推察されます。忠雅はわずか10年で伊勢・桑名に転封となる。次に、阿部氏初代備中守正邦が宝永7年、宇都宮と同じ10万石での転封が決まったが、江戸から離れた西国であり、実質的には収入減になる等の理由により、はなはだ困惑したそうである。
[阿部氏の治世]
宝永7年(1710)からの安部氏の治世では、元禄検地により百姓の年貢が増大したことにより、次々と起きる農民一揆(二代伊勢守正福・三代伊勢守正右・四代伊勢守正倫の時代に相次いで勃発)などで封建制度が揺らぎ始めていた。社会の立て直しを図るためには、藩士の綱紀粛正や資質の向上が欠かせないと人材育成の文教政策に力が注がれた。
四代伊勢守正倫が天明6年(1786)7月に藩校「弘道館」を設立。藩士、子弟の入学はもとより領民にも出席が許可された。
弘道館に先立つ天明元年(1781)当代一流の漢詩人で朱子学者の管茶山は、神辺宿で私塾「黄葉夕陽村舎」のちの「廉塾」を開き、社会秩序の乱れを教育で回復させようと「学種」の養成に専念していた。寛政8年(1796)茶山は、塾の永続化を図るために福山藩校の郷塾(分校)とする願いを藩に提出し受理され、これ以降、塾は廉塾あるいは神辺学問所とよばれた。七代伊勢守正弘は学制改革を決意し、新学館藩校「誠之館」を建設し、管茶山は教授方として遇されている。
安部氏は三代・四代・五代・七代と老中職を歴任しており、江戸詰めが長かったため何かと出費を強いられていたものと思われる。特に七代正弘は、天保14年(1843)には25歳の若さで老中に抜擢され、翌弘化元年江戸城本丸造営総奉行を務め、同2年老中首座となり、その後、日光東照宮の修繕、海岸防衛、江戸城西の丸造営、日米和親条約の締結、英・露・蘭の三か国との和親条約の締結など、内外とも激動の時代が続いたため福山藩には多難な時代であったといえます。
(函館出兵)
九代藩主伊勢守正方は、第一次・第二次征長戦に出征し、第二次征長戦、慶応2年(1866)4月に福山藩兵は、石州口浜田藩領で長州軍と戦火を交えている。この時浜田城(松平氏6万余石)は落城する。同年7月23日正方病を得て帰城。翌慶応3年11月22日、福山城内にて卒去。20歳の若さであった。当時、時局多難で葬儀を行なうことができずにいた。
翌明治元年正月9日未明、長州兵福山城攻撃の数刻前に、城北小丸山の竹薮に急遽仮埋葬された。直後に長州軍から、「今般徳川氏は朝敵となった。貴藩が徳川と存亡を共にするのなら、兵馬を差し向けろ」という戦書が届き、ただちに福山城は取り囲まれた。この時、海上では薩摩藩軍艦が城に向けて砲撃体制を敷いていたという。福山藩は評議のうえ「長州襲来に対しては、あくまで話し合い、大儀名分の帰するところに従うこと、よって先方が発砲しても決して接戦に及ばないこと」と決するや、使者を派遣して長州軍に話し合いを求めた。
この間長州軍は大砲や小銃を撃ちかけたてきた、一発大砲弾が天守の北面に当ったが、厚さ約3mmの総鉄張りのためびくともしなかったという。(この時の痕跡が昭和20年焼失前の天守にあったと聞く)城内からは一発も応じなかった。ただ、北側城内へ長州兵が乱入したので応射したが、長州兵も発砲を止め交渉に入った。
福山藩は、「朝廷に弓を引くはずはなく、主筋の徳川が朝敵となったからには、今後勤皇に尽力する」との証書を差し出した。
同年9月7日福山藩は朝廷より500人もの函館出兵命令を受けた。最後の藩主、十代主計頭正桓(広島藩主、浅野長勲ながことの弟で18歳で九代正方の養子となり、明治元年福山城へ入る)は、ただちに御礼の書を送ると、領内から軍資金一万両を調達し、総督岡田伊右衛門・副総督堀兵左衛門のもとに、藩兵他696人を従えて9月22日に大手門より出発、鞆の津で輸送船を待ち10月2日に出航。10月21日に函館到着、23日幕府脱走艦隊[榎本武揚](武揚の父円兵衛武規は、備後国箱田村「現神辺町」の庄屋細川園右衛門の次男で、伊能忠敬の門人となり文政元年(1818)御家人榎本家の養子となる。その後円兵衛は師の遺志を継いで「大日本興地全図」を完成させ、次第に昇進して旗本に列する。)率いる榎本軍と対戦したが不利で、福山・弘前などの諸藩はいったん青森まで敗走し、五稜郭・函館港は榎本軍に占領される。翌明治2年5月の函館回復戦では善戦した。福山藩の戦死者数は27人であったという。