安芸・備後二国49万8000石を領していた福島正則が、武家諸法度に違反したとして所領没収のうえ転封(改易処分に等しい)され信濃国川中島へ移されたあと、安芸国と備後の一部は浅野氏が42万石で入府。
備後国の東南部、備後七郡と備中小田郡の一部10万石の領主として、譜代大名の水野日向守勝成が大和郡山6万石から元和5年(1619)神辺城に入城。勝成は領内を歩き海路を押さえる鞆城などを検分し、また陸路を押さえる神辺城も海路に不便なため、元和6年春常興寺山に築城を開始し、元和8年8月に新城を完成させ城下を福山と呼びました。
元和の一国一城令後で、御三家の水戸・和歌山でさえ許されなかった白亜の五重天守は、天守の中心に二本の大柱で全体を支える構造になっていて、姫路城大天守と同様でありました。窓枠には銅板を巻きつけ補強をし、壁面は総漆喰塗りの白壁、但し北面だけは総鉄板張り。内部は各階に天井板を張っており、建築用材には極上のヒバ材を使用していたといわれています。
福山城は天守以外にも櫓の多い堅牢な城郭で、特に京都で廃された伏見城や、廃城となった神辺城からの移築物が多く、伏見御殿・御湯殿・伏見櫓・筋鉄御門・月見櫓(以上伏見城から)や、神辺一番櫓・同二番櫓・同三番櫓・同四番櫓(以上神辺城から)などが代表的なものです。これらを含め福山城に関する文献では三重櫓が7基、二重櫓が16基備えられ、本丸と二の丸はほぼ全周を多聞櫓で囲っていたとあり、多聞櫓の総延長は約570mに及び各曲輪は総石垣造りとなっていました。
城下町は西と南に侍屋敷、東の一部を町人町とし、その外側に下級家臣の屋敷、さらに寺を町のまわりに置き、町全体を芦田川とその分流によって包み込む形でした。
外堀と内堀には、満潮時には海水を入れ干潮時には芦田川の水を引き入れいつも満水としていた。
城郭規模は30万石に匹敵する大きな城であり、いかに福山城が山陽道鎮撫の重要な使命を負っていたかがわかります。
明治維新後福山城は廃城となり、堀は順次埋めたてられ建築物も数多く解体されたが、幸運にも天守・伏見御殿・御湯殿など本丸内の建築物はいくつか残された。このため天守は旧国宝に指定され保全が図られたが、昭和20年8月8日福山空襲により惜しくも焼失しました。わずかに残ったのが伏見櫓・筋鉄御門(ともに国の重要文化財)、鐘櫓・旧内藤邸長屋門(ともに福山市重要文化財)だけになりました。
昭和41年秋天守が再建され福山城博物館として公開されましたが、窓枠や高欄形状は旧態と異なっており、北面の鉄板張りは再現されず忠実な復原とは言えません。
現在は御湯殿・月見櫓・鏡櫓も再建されています。
[歴代藩主一覧]
藩 主 名 生年 没年 襲封・家督 石高(表高)の順で記載
1水野 勝成 なり 永禄7年1564~1651慶安4年入封(大和郡山6万石より)
元和5年(1619) 8・4 100000 寛永3年より101000
2水野 勝俊 とし 慶長3年1598~1655明暦元年寛永16年(1639)11・16 101000
3水野 勝貞 さだ 寛永2年1625~1662寛文2年明暦元年(1655) 5・29 101000
4水野 勝種 たね 寛文元年1661~1697元禄10年寛文3年(1663) 2・3 101000
5水野 勝岑 みね 元禄10年1697~1698元禄11年元禄10年(1697)10・22 101000
1松平 忠雅 まさ 天和3年1683~1746延享3年入封(出羽山形10万石より)
元禄13年(1700) 1・11 100000
1阿部 正邦 くに 万治元年1658~1715正徳5年入封(宇都宮10万石より)
宝永7年(1710) 8・15 100000
2阿部 正福 よし 元禄13年1700~1769明和6年正徳5年(1715) 3・12 100000
3阿部 正右 すけ 享保9年1724~1769明和6年寛延元年(1748) 11・19 100000
4阿部 正倫 とも 延享2年1745~1805文化2年明和6年(1769) 8・29 100000
5阿部 正精 きよ 安永3年1774~1826文政9年享和3年(1803) 10・5 100000
6阿部 正寧 やす 文化6年1809~1870明治3年文政9年(1826) 8・24 100000
7阿部 正弘 ひろ 文政2年1819~1857安政4年天保7年(1836) 12・25 100000
嘉永5年より110000
8阿部 正教 のり 天保10年1839~1861文久元年安政4年(1857) 8・13 110000
9阿部 正方 かた 嘉永元年1848~1867慶応3年文久元年(1861) 5・不明 110000
10阿部 正桓 たけ 嘉永4年1851~1914大正3年明治元年(1868) 7・23
(福山藩知事となる) 110000