幕末。この時期の日本の対外政策と言えば、なにかと受け身になりがちである。
しかし、ここにまったくそれとは異なる対外政策の思考の持ち主がいた。
今回島津家がどういうものかというものは、皆さんご存じだと思うので省略するが、島津家という家系は鎌倉時代より九州南部に蹲踞し、「島津に暗君莫し」と謳われるほど、明君を輩出し、その地位を守り続けてきた。
しかしその中でも、島津斉彬は卓抜した人物と言わねばならない。
いや、300諸藩の中でも最も優れていると言っても過言ではない。
彼の実績について多少の具体性を以て挙げてみると、
・ペリー来航からわずか3年にして、国産蒸気船を開発
・反射炉
・溶鉱炉
・集成館事業の発足(地雷、水雷、ガラス、ガス灯の製造など)
・木綿紡績事業
・後込め式連発銃の開発(村田経芳の村田式連発銃)
・小銃、大砲の国産化
・西郷隆盛を始めとする優れた下級郷士の登用
といったものが挙げられるであろう。
どれも世界水準に達しており、特にガラス製品はガラス製品を輸出品としているトルコ産のものと劣らずとも優っていたという。
小銃などは後込め式小銃3000丁を製造し軍隊の西洋化(近代化)に着手、
などなど群を抜いている。
村田経芳の開発した連発銃は村田式連発銃と呼ばれ、軍銃一定に基づき国産化し日本軍の基本装備となり、戦前の戦史で活躍する。
現在は猟銃として親しまれているそうだ。
ちなみに村田経芳とは、「銃豪」すなはち、銃キチガイであったという。
維新後は技術開発のことにしか念頭になく、彼は久光派のはずであるのに、西郷隆盛に欧州留学を頼みに行くという、無頓着と言うか政治に無関心な一面があった。
しかし戊辰戦争では小隊を率いて常に前線で戦い、その射撃技術は群を抜いており、西洋での射撃大会で、ついに誰にも負けることはなかったという。
話がそれたが、
なぜこのような事業に着手できたかと言うと、
江戸時代後期の財政改革者・調所広郷の時代までさかのぼらなければならなくなるが、今回は省略する。
この世界を見つめ、日本にときめく薩摩の大名が独自の対外政策を打ち出すのも納得であろう。
斉彬の唱える政策とはこうである。
「欧米列強に並んで、海外に積極的に進出する。台湾、満洲、朝鮮に出兵し本国の護りと為し、同時に太平天国で苦しむ清朝政府を扶け、アジアの同盟をなす」
と、簡潔に答えるとこういうものである。
こういった開明的な意見は、巷間の志士たちよりはるかに世界が見えていたと言える。
しかし、ここで西洋と大きく違うことは
西洋が産業革命により膨張した資本に対応できなくなり、海外へ新しい市場を求めたのに対して、島津斉彬の説くこの「日本膨張論(とでも言っておこうか)」は
純国防政策論であり、けっして帝国主義の植民地政策ではなかった。
つまり、海外で日本軍が屯田兵の如く自給自足し、国防に当たるというものであった。
この島津斉彬の「日本膨張論」は、しかし、やはり書生論であって
国際情勢を一切無視したものであった。
実際にこの「日本膨張論」に類似する議論が明治政府初期のころ閣内を二分して議論された。みなさんご存じの「征韓論」だ。
征韓論が実現されていたら、日本は清、ロシア、英仏を同時に相手に戦わなければならなかったかもしれない。
それを考えると、やはりこの純国防的「日本膨張論」は机上の空論であった。
しかし、島津斉彬が卓抜した眼目の持ち主であることは揺るぎがない。