私の伊達政宗像を訪ねて(その4-②) | 歴史と文化の路を訪ねて

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還暦を過ぎてなお青春、本州全県のマラソン大会を走りながら各地の歴史と文化を訪ねて思うことを同人誌「まんじ」に寄稿しています。
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題 : 『私の伊達政宗像を訪ねて(その4-②)』

【政宗と家康】

①父輝宗と家康と信長

天正7年7月1日付けで三河の家康が政宗の父輝宗に宛てた書状(伊達家文書306)が、初信挨拶の「雖未申通候」で始まり、「仍鷹爲所持、鷹師差下候」と好を通じてきた。家康は輝宗と同世代である。
7年前の天正元年10月、輝宗は、将軍足利義昭を追放して元亀から天正に改元させ近江の浅井・朝倉氏を倒した信長に初めて書状を送り、鴘鷹一聯を贈っていた。
同年の12月28日、信長は、輝宗宛て礼状(同文書291)で「来年甲州令発向、関東之儀令成敗候、其砌深重可申談候、御入魂専要候」と、関東侵攻の折には輝宗を頼りにしている旨を伝えてきた。
その5年後の天正5年7月23日、信長は輝宗に宛てた朱印状(同文書302)で「就謙信悪逆、急度可加追伐候」と上杉謙信の追伐を要請、輝宗は柴田勝家率いる織田軍の北国出陣に呼応して越後上杉領に侵攻した。
 信長と好を通じる輝宗に家康が冒頭の初信挨拶状を送ってきた天正7年は、前年3月に謙信が急死、後嗣争いの御館の乱で、北条を実家にする義兄景虎に勝利した上杉景勝が、与力した甲州の武田勝頼と甲越同盟を結び、勝頼との甲相同盟が破綻した北条氏政が、三河の家康と対武田同盟を締結する、まさに合従連衡の時代である。
冒頭の輝宗宛て家康書状は、信長と同盟を結び東海道の抑えを信長に任されていた家康が、これまで信長の要請で越後に侵攻し、御館の乱で氏政の実弟景虎に援軍を出してきた輝宗に好を送り、小田原北条と同盟を結び奥州の覇権を狙う輝宗との連携を求めてきたのであろう。


②小田原陣の政宗と家康

家康が輝宗に宛てた初信挨拶状の5年後に家督を相続した政宗と家康との関係はどうなったのだろうか。
大日本古文書に二人の交信記録を調べると、秀吉が小田原北条氏宛てに発した宣戦布告状の1年前の天正16年10月26日に、家康が政宗に宛てた書状(同文書392)が収録されていたが、初信挨拶の「雖未申通候」がなく、二人は既に書状を交わしていたようである。
書状の冒頭に「其表惣無事之義、家康可申噯旨、従 殿下被仰下候間」とあり、家康が秀吉より奥州表惣無事の噯を命ぜられたことを政宗に伝えてきた。噯とは今なら和解調停人であろう。そして書状の後段で、政宗に出羽の最上義光との和親を諭してきた。
家康は、5ケ月前に北条氏直に起請文を送り秀吉の許へ上洛を要請、拒否するなら娘督姫を離別させると最後通告していた。家康はまだ秀吉に完全に屈服していた訳ではなかったが、西国を平定した秀吉の勢いに、本能寺以後の上方の異変に対応して構築してきた伊達・北条・徳川の三国同盟の危機を予感したにちがいない。
家康は、氏直と政宗を早期に上洛させ、秀吉に臣従させ、東国の現体制を秀吉の侵食から守りたい、北条と伊達が潰されては徳川も危うい、と考えたのであろうか。

天正18年(1590年)1月、家康は後嗣の秀忠を上洛(人質)させ秀吉に臣従を誓い、北条と事実上断交した。北条は小田原籠城を決断、臨戦態勢に入った。
秀吉は3月1日に20万の大軍を率いて京を発ち、小田原城包囲戦が始まった。政宗が小田原参陣を決意したのは三月二五日、小田原の秀吉の許に参陣した六月九日は、小田原合戦の終息直前だった。
政宗は、秀吉の私的領土紛争を禁じた惣無事令に反して会津蘆名氏を滅ぼした弁明の使者を秀吉の許に送りながら、一方で、小田原北条氏との同盟を維持して、常陸佐竹を北と南から挟撃して関東への侵略を目論む両面作戦を続けていたが、想定外の早さで東国へ進撃してくる秀吉の小田原合戦の進捗に、追い詰められたのだろう。政宗は、5月9日に会津黒川城を出立、越後、信濃を経由して、小田原に布陣する秀吉の許へ向かった。

小田原に向かう途上の5月24日、政宗が浅野長吉に宛てた書状(仙台市史:伊達家文書695)がある。「甲州阜中ニ一両日中令滞留、御本陳江被打帰事、可待入候」一両日中に甲府に着くので、長吉に出陣先から本陣に帰り、秀吉との謁見を取り成して欲しいと頼んでいた。
その4日後、長吉宛てに、再度、出状(同文書696)した。「漸昨廿七、甲府之地迄罷登候、雖然貴辺武州口御在陣之由候条、先々当地ニ令滞在候、別而憑入候筋目、早速御本陣ヘ被打返、万々御執成憑入候」と、昨27日甲府に着いたので、武州口に出陣している長吉に早く小田原本営に帰って欲しいと、まさに懇願である。
浅野長吉は、妻が秀吉の正室寧々と姉妹で、後に豊臣政権の五奉行筆頭となる秀吉の腹心である。政宗に上洛催促の書状を頻繁に送ってきており、惣無事令違反と小田原遅参で怒らせてしまった秀吉との謁見に身の危険を抱く政宗が、長吉を頼りにしたのも当然であろう。
しかし長吉は、政宗の懇願に、わざわざ戦陣を抜け出してまで、小田原本陣に来てはくれなかった。
もとより一連の政宗宛て上洛催促状は、政宗への個人的好意からではなく、秀吉の指示で出状していただけで、秀吉の縁者とはいえ、傲慢な秀吉に逆らえない長吉にとって、政宗の頼み事は、迷惑な話だったのかもしれない。
政宗が小田原に着いたのは6月5日、長吉に出状して10日近く経っている。甲府から小田原まで直線で70キロ、数日の距離である。政宗は何日か甲府に滞在して、長吉からの色よい返信を待っていたにちがいない。
政宗が頼りにした長吉は、この時、北条氏直の叔父氏邦が守る鉢形城を、5月14日から前田利家・上杉景勝らと攻撃中で、長吉が小田原本陣に帰ったのは、譴責役として秀吉に呼び戻されたからで、七日の政宗への譴責使を務めると、翌朝には鉢形城攻撃に戻ってしまった。
伊達家正史の伊達治家記録に、小田原陣の秀吉対面に長吉と利家が立ち会ったとあるが、政宗への譴責役を終わらせると二人はすぐ戦場に戻っており、政宗の秀吉対面に立ち会ったのは、どうも家康だけだったらしい。

実は、政宗が石垣山一夜城の本陣で秀吉に謁見する前に、小田原城包囲網の東側に布陣する家康の許に直行していたとする史料がある。家康の家臣内藤清成の「天正日記」の天正18年6月の条に、政宗が家康の陣地を訪ねて、接待と風呂を受けた様子が記されている。
「六月一日、きしゅく(危宿)だてどの(政宗)内々にて、この方へ御こし、ゆふき様(秀康)より御たのみ也。二日、だてどの、ゆふき様、御ちそう(馳走)、ふろ(風呂)たくべしと仰出さる。四日、大との様(家康)ゆふき様だてどの御一所に殿下(秀吉)へ御こし成。」

文中のゆふき様とは、家康の次男結城秀康である。政宗は、鉢形城攻略中の浅野長吉の陣中に二度も書状を送り、秀吉謁見の取り成しを懇請したが、長吉から返事があったのか無かったのか、いずれにせよ長吉の態度に痺れを切らしたのだろう、甲府から小田原城包囲網の東側に布陣する家康の許に直行したようである。
政宗は、長吉と家康に同主旨の書状を送り、二人に保険を掛けていたにちがいない。結局、長吉は小田原本営での秀吉との謁見に立ち会ってはくれなかっtた。六年後の文禄五年に、政宗が長吉に送り付けた絶縁状の不信と恨みは、この時に芽生えたのかもしれない。

政宗は、小田原北条氏と姻戚関係を持ち秀吉にギリギリまで抵抗してきた家康を最後の頼みにしたのだろう。
一方の家康は、小田原合戦の終結後に、故地の三河から江戸へ転封を秀吉に命ぜられており、関東移封後のことが、最大の関心事だったにちがいない。
当時の北関東に勢力を持つ常陸の佐竹義重は、反小田原北条勢力として秀吉の腹心石田三成と好を通じており、関東移封後の家康にとって大きな脅威となる存在だった。常陸の背後にあって長年佐竹と抗争してきた陸奥の政宗は、家康にとって得難い同心する勢力だったのだろう。
小田原陣に遅参して窮地に立つ政宗を陣屋に迎えた家康は、このとき政宗とどんな話を交わしただろうか。
 
伊達家正史の伊達治家記録に、小田原参陣の出立前夜に弟小次郎刺殺事件があったと記すが、実は小次郎は殺されておらず、あきる野市の大悲願寺に秀雄の名で隠匿されていたことを示す史料が、近年発見されている。
小次郎を隠匿した大悲願寺の住職海誉上人は、家康が関東に入府する折に師檀の関係を持った増上寺十二世観智国師源誉上人の甥に当たり、小次郎の大悲願寺預かりに、政宗からの頼みを受けた家康が、増上寺源誉上人を通じて大悲願寺の海誉上人に周旋したにちがいない。
あるいは政宗の窮地を救うべく、小田原陣遅参の口実に、母保春院による政宗毒殺未遂と政宗による弟小次郎の刺殺という一連の事件をでっち上げる二人の謀議が、この時になされたのかもしれない。

小田原遅参の以降も、葛西大崎一揆煽動の嫌疑、関白秀次謀反の容疑など、相次ぐ秀吉との確執を巧みに切り抜けていく背後に、いつも家康の影が私には見えてくる。


③徳川との婚姻戦略

慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると、翌4年1月、天下を目指す家康は、秀吉の遺言を破り六男忠輝を政宗の長女五郎八姫と縁組させ、次いで福島正則・加藤清正・黒田長政ら外様大名との婚姻を進めていく。
家康の息子は、長男信康が武田勝頼へ内通の容疑で信長の不信を買い切腹、次男秀康が秀吉の養子となり結城家を相続、征夷大将軍を徳川の世襲にしたい家康は、残る三男秀忠を、消去法で二代将軍に据えたといわれる。
秀忠が将軍に相応しい人物だったかは別として、弟の四男忠吉と五男信吉が早死、強い個性を持った六男忠輝が将軍秀忠を脅かしかねない唯一の存在だったという。
そんな危険因子の六男忠輝を、外様大名の政宗に託すとは、政宗がいかに家康に信頼されていたかが知れる。

忠輝の生母茶阿局は、遠江国の地侍の娘で身分が低く、忠輝は生れつき異形な容貌と粗暴な性格に、父家康から嫌われていたといわれる。忠輝を後見する大久保長安が不正蓄財嫌疑で粛清され、家康が死去すると、兄秀忠に越後高田75万石を改易され、五郎八姫と離縁、伊勢に流罪、35歳で諏訪に幽閉、92歳でこの世を去った。
長野県諏訪市の忠輝の菩提寺貞松院に、信長から秀吉そして家康に渡った一節切「乃可勢(野風)」が伝わっており、家康が死期に茶阿局を通じて忠輝に贈ったと伝えられる。これが事実なら家康が嫌っていた忠輝に天下人に引き継がれてきた名笛を本当に託すものだろうか。
徳川幕府の創生期に、三河以来家康を支えて幾多の戦陣を勝ち抜いてきた譜代武功派と領国経営に行政手腕を発揮する新参吏僚派が対立するなか、将軍職を譲った三男秀忠の立場を慮り、幕藩体制安定のため、大久保忠隣ら武功派が擁立せんとする六男忠輝を遠ざけて、家中の分裂を回避する苦渋の判断があったのかもしれない。
後に家康は、末娘市姫が生まれるとすぐ、政宗の嫡男忠宗と婚約させ、市姫が3才で夭逝すると、次女督姫の娘振姫を秀忠の養女として忠宗の正室に嫁がせた。
更に政宗の長庶子秀宗に、徳川四天王の井伊直政の娘亀姫を正室に迎えさせており、大坂の陣を前に、家康の政宗を取り込む周到で手厚い婚姻戦略が見えてくる。


④関ヶ原と百万石お墨付

慶長3年8月18日、秀吉が生涯を閉じると、朝鮮出兵時の確執と秀次謀反嫌疑の後遺症が投影したのか、石田三成ら文官派と福島正則ら武官派の抗争が顕在化した。
翌4年3月3日に纏め役の長老前田利家が死去、秀吉政権を牛耳ってきた石田三成を襲撃した秀吉子飼いの加藤清正・福島正則ら七将が、秀吉死後の実権を掌握した家康と結び、両派の対決は決定的となった。
この時の政宗の立つ位置はどうだったのだろうか。
伊達治家記録に「此時節、大神君ヨリ公へ、御内意等仰下さる事アリ」、3月8日に「公一筋ニ大神君へ御心ヲ寄セラル」とあり、4月5日に政宗は、家康の側近で茶人の今井宗薫に起請文を送り「乍勿論無二無三内府公江申合候間、向後縦如何様ノ世上ニ成行候共、一筋ニ内府御手前ヲ守リ可奉一命候間、萬事御心易可預御取成事」今後たとい如何様の世情になろうとも、一筋に家康様をお守りし一命を捧げますと忠誠を表明していた。
慶長5年3月、臨戦態勢を始めた会津の上杉景勝に対して、家康は謀叛嫌疑と上洛弁明を命じたが、景勝はこれに応ぜず、挑戦的な書状を送り返してきたため、6月16日、家康は諸将を率いて会津上杉討伐の軍を発した。
家康と意を結んでいた政宗は、その2日前に大坂を出立、中山道から上杉領の会津を迂回して、上野・下野・磐城・相馬を経由、7月12日に領国に入り、上杉攻めの準備に着手した。

家康は、政宗に信夫口からの上杉領侵攻を命じ、7月24日、政宗は、旧領だった刈田郡白石城を奪取した。
その翌日、上方での三成挙兵の報に、東征していた上杉討伐軍の諸将による小山評定が開かれ、豊臣恩顧の諸大名が家康に味方することを決し、上杉討伐軍は上方に反転、8月23日、福島正則が西軍の岐阜城を攻略した。
その前日、江戸にいた家康が、政宗に世に云う「百万石のお墨付」を書き送った。奥州仕置で秀吉に取り上げられ上杉領になっていた旧領の刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の七か所(合計49万5千石)を政宗の家老衆に与えるという本領還付の覚書である。 これで政宗の所領は百万石になるはずだった。
政宗を懐柔した家康は、後顧の憂いなく9月1日に江戸城を発し、西征の途についたが、天下分け目の関ヶ原の戦いは、9月15日一日で決してしまった。
政宗は、守将の甘糟景継が会津若松城に詰めて留守だった白石城を強襲して占拠したあと、上杉に講和を申し入れながら、一方で上杉の直江兼続軍に攻め込まれた最上義光からの救援要請に応じて留守政景軍を送り、更に上杉領の福島城攻めのため白石城に移ったが、その日に関ヶ原での家康軍大勝利の報が届いた。
秀吉の奥州仕置で失った故地伊達・信夫郡の奪還を目指した政宗の福島城攻略は、城将本庄繁長の抵抗に合い宿願果たせぬまま、上杉景勝の降伏上洛で頓挫した。

天下分け目の戦いの長期戦を予想していた政宗は、策を弄して領土拡大を図るべく、南の会津上杉領と西の山形最上領だけでなく北の岩手南部領にも侵攻、秀吉の奥州仕置で改易された和賀忠親の南部領内での旧領奪還の一揆を密かに支援していたのである。 
政宗は、上杉勢に攻められた最上氏から救援要請を受けて軍勢を最上領に送り軍備が手薄になっていた南部氏の花巻城を攻略していた和賀忠親に、密かに鉄砲二百挺を送っていたが、和賀一揆が失敗に終ると、一揆支援の発覚を恐れた政宗は、忠親を謀殺したといわれる。
関ヶ原合戦後に、徳川側に属する南部氏の領内に攻め込んでいたことが家康に発覚したこともあり、「百万石のお墨付」は反故となり、東軍諸将が大幅加増される中、政宗は奪還した刈田郡白石の2万石の加増に止まった。


⑤長子秀宗の伊予宇和島藩

仙台藩二代藩主忠宗に八歳上の庶兄秀宗がいた。秀宗は天正19年9月25日、私の郷里の隣町村田で誕生、幼名を兵五郎、生母は伊達氏庶流の飯坂宗康の二女吉岡局、姉は後に朝鮮の役で病没する桑折政長の妻である。
前年6月に小田原参陣から戻った政宗は、正室愛姫を京へ人質に送り、葛西大崎一揆に取りかかっていた。翌年正月に一揆煽動の疑惑で上洛、秀吉に許されて5月に米沢に帰り、一揆の鎮圧を果たすが、9月に奥州仕置で領地を更に減封され、米沢城から岩出山城に移った。
翌文禄元年(1592年)正月、兵五郎との父子対面がないまま、政宗は朝鮮出兵のため岩出山城を出立した。翌二年九月に朝鮮の役から帰国、政宗は四年夏までそのまま京で暮らす。文禄三年二月、四歳の兵五郎を京に呼び寄せて聚楽第で秀吉に謁見、半年前に生まれた秀頼に侍して、京の伏見城で共に幼少期を過ごしたという。
翌年の関白秀次謀反事件に加担した疑いで、秀吉は、政宗を伊予に流罪、兵五郎に家督を継がせようとした。正室愛姫との嫡子忠宗(慶長4年生れ)がまだ生まれておらず、唯一の家督相続資格者だったのである。
慶長元年4月、六歳の兵五郎は秀吉の猶子となり元服、秀吉の一字を賜わり秀宗と称し、従五位下侍従に叙せられ、豊臣姓を授かった。秀吉は、秀宗を我が子秀頼同様に待遇、豊臣大名たちに両殿様と呼ばれたという。
ここに逸話がある。秀宗と秀頼が力技を競った時、年長の秀宗が秀頼を組み敷いたが、秀宗がとっさに懐紙を出して足に当て、秀頼を組みつけたという。このことが秀吉の耳に入り秀吉は感服したといわれる。
しかし秀宗への秀吉の寵愛が、秀吉死後の豊臣家凋落とともに、秀宗に暗い影を落としていく。

秀吉の死後、政宗は家康に急接近、慶長四年正月に長女五郎八姫と家康六男忠輝が婚約、12月に正室愛姫に嫡男虎菊丸(後の忠宗)が誕生した。
慶長5年の関ヶ原合戦直前、京に残っていた秀宗が西軍の人質として宇喜多秀家邸に軟禁されたが、作並清亮著『東藩史稿(大正4年)』に「浮田秀家喜テ其女ヲ以テ之ニ妻ス取テ其邸ニ置ク」とあり、共に秀吉の寵愛を受けて猶子になっていた秀家の秀宗への心情が窺える。
関ヶ原後の慶長7年9月、秀宗は伏見で初めて家康に謁見、四歳から十二歳まで住んだ京を離れ江戸に送られたが、政宗は、守役の大和田忠清に11カ状の掟書を与え、秀宗の江戸生活は、厳しい監視下に置かれたという。
未だ大坂城に秀頼が健在で、豊臣恩顧の西国大名が勢力を保持しており、秀の字を貰い、豊臣の姓を賜わり、長く秀吉の猶子として育てられた秀宗は、政宗の長子とはいえ、家康にとっても危険分子だったのだろう。
秀宗は、慶長14年に家康の家臣井伊直政の娘亀姫と結婚、徳川陣営に取り込まれるが、2年前に弟の虎菊丸が、家康の末娘市姫と婚約しており、弟虎菊丸(後の忠宗)の仙台藩家督継承は、もはや明らかだった。

大坂冬の陣に、秀宗は父政宗に従い、馬上侍五〇騎と鉄砲二百挺を率いて参加した。休戦後、将軍秀忠に謁見、伊予宇和島藩十万石を賜わった。仙台藩を継がせられない秀宗への家康と政宗の配慮があったのかもしれない。
しかし長子としての自負が強く、実父と引き離され長く蔑ろにされてきた運命への恨みからか、実父母と暮らす弟忠宗への妬みもあったのか、父政宗との確執に一時勘当されたが、老中土井利勝の取成しで和解したという。
秀宗は、支藩扱いを嫌い、将軍家光との対面では、宗家藩主の弟忠宗より上座に着座したという逸話がある。
幕末の伊予宇和島藩主八代伊達宗城は、松平春嶽・山内容堂・島津斉彬と共に幕末四賢侯と称され、朝廷と幕府を周旋、公武合体を推進した偉人である。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の盟主となった仙台藩主伊達慶邦に降服帰順を周旋、宗家仙台藩の廃絶を救ったといわれる。


⑥大坂の陣と政宗

慶長19年(1614年)10月、家康の大坂の陣の命で仙台を出陣した政宗の許に、下野国小山で、大坂方の使者和久宗友が、家康と秀忠に政宗から救解をしてもらいたい旨の秀頼の依頼を持参してきた。
政宗は、宗友の父宗是から受けた恩義を思い、宗友を処分せず、家臣を副えて送り還す方途を講じたという。
和久宗是は秀吉の右筆で、政宗に小田原参陣を促す書状を頻繁に出状、葛西大崎一揆に政宗の関与が疑われた際には、秀吉が抱く疑惑内容をいち早く政宗に教えて早急な上洛を勧め、政宗の申し開きを助けてくれた。
秀吉の死後、政宗はこれまでの恩に報いるべく。宗是を仙台に招き、黒川郡大谷村に所領を与えていたが、大坂の陣に際して、宗是は、秀吉の恩に報ずるは今と、政宗に別れを告げて大坂城に参陣、夏の陣に単騎敵陣に突入して八一才の生涯を終えたという。
徳川の時代になってなお、恩顧の秀吉側近を迎え入れていた報恩の政宗の姿が垣間見える逸話である。
政宗は、秀忠に第一番勢として西上を申し出、1万8千の陣立てで江戸を出立した。徳川方20万の大軍が大坂方10万の籠城する大坂城を包囲した大坂冬の陣は、11月19日に開戦、政宗は、宇治から大坂城外の矢尾川端に宿陣、29日に仙波に移動した。
12月1日に仙波外町で激しい銃撃戦となり、3日に各攻城諸隊が竹束の楯垣を作って城壁に接近、城中より鉄砲雨の如く撃ち出してきたと伊達治家記録にある。
4日には前田、井伊、松平勢が攻撃を仕掛け、城中でも総攻撃と思い鉄砲を撃立て、攻城軍に多数の戦死者を出て、家康は戦闘を停止させたという。11日に徳川方は築山に大筒を構え置き、城中へ撃ち込み、秀頼の母淀君は戦意を喪失、20日、和議が成立した。
政宗は和議条件の石垣・溝堀の取り壊しに従事、冬の陣に参加した長子秀宗が伊予宇和島10万石を賜わった。百万石お墨付きを破約した家康の心尽くしであろうか。

大坂仙波の陣所で越年した政宗は、1月23日に大坂城取崩請負分を完成させて京都に戻り3月6日に帰国の途についた。途中の駿府で家康に接見、大坂城再攻撃の近いことを知った政宗は、国許に出兵を指図して、4月9日に江戸から大坂へ出立した。
この時、17歳の嫡男忠宗が初陣を飾りたいと懇願したが、今回の戦は、単なる城攻めではなく野戦中心になり激戦が予想され、嗣子の身に万一があればと、老中土井利勝に頼み込み、忠宗出陣を中止させた。
5月3日に木津に在陣した政宗は、奈良口を命ぜられた娘婿の越後忠輝を主将にその先鋒となり進撃、六日に道明寺口で先鋒の片倉重綱が、敵将後藤又兵衛と薄田隼人を討ち取った武勇に、鬼の小十郎と称されたという。
重綱の父景綱は、政宗の乳母となり養育も担った喜多の弟で、輝宗の小姓となり後に政宗の近侍となった股肱の重臣である。重綱は病床の父に代わり従軍していた。

戦線に遅れて到着した真田幸村と毛利勝永の大坂方後続部隊の猛攻に、大坂方が勢いを盛り返し、騎馬鉄砲隊を先登に突撃する伊達本隊を誉田まで後退させたが、真田軍も甚大な損害を受け、追撃を断念、軍を返した。
この時、忠輝が疲労する伊達軍に替り進撃したい旨を申し送ってきたが「合戦今日許りに限るべからず」と政宗は忠輝を思い止まらせたという。もし忠輝軍が政宗軍と入れ替わっていれば、真田軍に打撃を与えたかも知れないが、血気と功名に逸る忠輝を死にもの狂いの真田軍と対峙させるリスクを政宗は案じたのかもしれない。
翌7日の大坂方真田幸村・毛利勝永・大野治房の残存部隊による突撃で、家康本営は混乱に陥ったが、兵力に勝る徳川方が態勢を立て直し、真田幸村は討ち死、大坂城は落城、翌日、秀頼と淀君は自害、豊臣家は滅亡した。


⑦真田幸村と政宗

大坂城落城の前夜、政宗は敵将真田幸村の子女を、密かに救出した。落城と討死を覚悟した幸村が、道明寺での若き片倉重綱の勇猛な武者振りと智勇兼備を見込んで密かに重綱の陣所に子女を送り届けたといわれている。
しかし、徹底した残党狩りのなか、主君政宗の許しもなく、家康の最も恐れた幸村の子女を匿えるはずがない。真相は、政宗の陣所に送り届けられたが、後日の露見を恐れ、重綱の一存で匿ったことにしたのかもしれない。

幸村と政宗は、それまでに交流があったのだろうか。幸村は秀吉の馬廻衆で、朝鮮出兵の肥前名護屋城内で2人が出会っていた確率が高い。小田原陣の遅参劇でその名を世に知らしめ、京の朝鮮出陣式で奇抜で華麗な武者行列で注目を浴びた政宗は、幸村と同じ永禄10年の生れ、秀吉は2人を引き合わせていたかもしれない。
伊達の陣所に送り届けられた幸村の子女の母は、病身を押して関ヶ原で討死した西軍の将大谷吉継の娘である。吉継は朝鮮出兵時の船奉行兼軍監、文禄の役で普州城攻防戦に参戦し9月には帰国しており、政宗と行動を共にしていた可能性が高い。秀吉の死後、吉継は家康に接近、三成の挙兵を無謀と諫めたが、敗戦覚悟で三成に与して友情に殉じた吉継を政宗は崇敬していたのかもしれない。
政宗は、幸村の子女を仙台藩に連れ帰り、密かに片倉重綱の白石城で養育させた。幸村の三女阿梅は、後に重綱の後妻となり、六女阿菖蒲は、政宗の正室愛姫の甥田村定広の妻に迎えられた。田村氏は平安初期に蝦夷討伐した征夷大将軍坂上田村麻呂の末裔である。
幸村の次男大八は、元服して片倉守信を名乗り伊達家家臣となり、次の代で真田氏を名乗り、その子孫の十三代真田徹氏は、大学の6年後輩で鹿島道路を退職後、講演と執筆で活躍する豪放磊落で快活な紳士である。

関ヶ原に敗れ浪人となり幸村と共に豊臣方に参陣した長宗我部盛親の妹で家臣佐竹親直の妻阿古姫も、大坂城を脱出して伊達軍に捕えられ、仙台で密かに匿われた。
教養豊かな阿古姫は、中将と称され政宗の近侍となり、二人の息子は小姓に取り立てられ、次男輪丸が柴田朝意を名乗り奉行を務め、後の伊達騒動で、酒井大老邸で原田甲斐と斬り合って死んだ柴田外記である。
同じく大坂方武将塙団右衛門の娘も政宗の側室となり四男宗泰を生んだと前掲の東藩史稿に「大坂ノ士團右衛門其ノ女、宗泰君ヲ生ム。大坂ノ役塙團右衛門戦死ス、其二女遁レテ我営ヲ過ク公皆納レテ嬪御トナス」とある。
政宗が大坂方敵将の子女を多く匿っていることは、家康の耳に届かないはずはなく、家康は政宗の所業を大目に見ていたのだろう。家康の政宗への信頼の程が窺える。


⑧家康と政宗の海外への夢

伊達政宗の名を世界に馳せたのが、慶長18年(1613年)の慶長遣欧使節派遣である。家臣支倉常長と宣教師ルイス・ソテロを、メキシコそしてスペインからローマに派遣したこの偉業が、実は政宗の単独事業ではなく、当初の構想は家康で、それを政宗が引き継いだ、いわば二人の共同事業だったことは余り知られていない。

15世紀から16世紀中頃の世界は、大航海時代と呼ばれ、新航路を開拓して海外に植民地を求め、ポルトガルが東周りで、インド洋経由で中国マカオを拠点に東アジアへ、スペインが西回りで、大西洋をメキシコ経由で太平洋を横断、マニラを拠点に東アジアへ進出した。
ヨーロッパの宗教界も、ルターの宗教改革による新興のプロテスタント教会の伸張に危機感を抱いたローマカトリック教会が、海外に新たな信徒獲得を求めて、植民地と交易を拡大させる航海に、使命感溢れる宣教師を帯同させて、植民地への布教活動を進めていった。
両国の東洋進出は、イスラム勢力から先に独立を果たしたポルトガルがスペインに先行した。日本最初の渡来南蛮人は、1543年に種子島に漂着して鉄砲を伝来させたポルトガル人であり、六年後にキリスト教を日本に初めて伝道したザビエル神父もポルトガル人である。
日本の南蛮貿易は、西国大名が長崎を拠点に、マカオを拠点にするポルトガル相手に、ほぼ独占していた。
関ヶ原に勝利して幕府を開いた家康は、西国大名が独占していた南蛮貿易のもたらす利権を求めて、幕府主導の朱印船貿易を進め、マニラを占領して太平洋航路を開拓したスペイン領メキシコとの直接交易を働きかけた。
しかし家康の申し出にフィリピン総督の反応は消極的だった。大型帆船の建造と航海操船の技術を日本が習得することで、太平洋の制海権とメキシコと東アジアとの通商の独占が脅かされると懸念したのであろうか。
秀吉が1591年にフィリピン総督に日本への調貢を要求、翌年には文禄の役で朝鮮に侵攻、1609年2月に島津藩が琉球王国を侵略しており、日本の領土的野心がルソンにまで及ぶことを警戒したのかもしれない。
 
慶長14年(1609年)9月、マニラからメキシコ本国に任務交代で帰還途中の前フィリピン総督ロドリゴ・ド・ビベロの乗船するサン・フランシスコ号が台風に遭遇して外房の御宿海岸に漂着した。
地元民に救助された前総督は、江戸城で将軍秀忠に、駿府城で家康に謁見、かねてメキシコとの交易を願っていた家康は、幕府の建造船で前総督をメキシコに送還することとし、翌十五年六月、京都商人田中勝介らを同行させて、メキシコとの直接交易の交渉に乗り出した。
マニラからメキシコに向かう北太平洋航路は、台風の通り道、かつ波の荒い黒潮に遭難する交易船の多い難航路で、家康は、東日本の太平洋沿岸への避難寄港を認めて、浦賀を拠点にしたメキシコ交易を交渉、併せてメキシコの銀精錬技師の派遣も要望した。
翌16年6月、フィリピン前総督送還の御礼と日本近海の金銀島探索を兼ねて来日した答礼使兼探検家のビスカイノが、日本でのキリスト教布教とスペインが敵対するオランダの追放を交易条件にしてきたため、キリシタン禁教政策を採り、商教不一致のオランダと交易を始めていた家康のメキシコとの通商交渉は、ここで頓挫した。
しかし、答礼使ビスカイノをメキシコに送還する幕府の建造船が、暴風雨で大破して浦賀に戻ったため、答礼使の送還と頓挫した通商交渉は、奥州の政宗が引き継ぐこととなり、翌十八年の支倉常長の遣欧派遣に繋がった。

日本のキリシタン弾圧は文禄5年(1596年)9月のサン・フェリッペ号事件がきっかけといわれる。
マニラからメキシコに向かうスペイン船サン・フェリッペ号が土佐沖で遭難、秀吉の命で積荷が没収され、抗議する航海士が「西班牙王の先づ宗教を以て外国を化し、次に兵を以て之を奪ふ」と暴言を吐いたことから、スペインに警戒心を抱いた秀吉は、禁教下で公然と布教を行なっていた畿内のスペイン宣教師らを捕え、京都・大坂を引廻し、翌六年に長崎で磔に処した。日本二十六聖人殉教である。
家康は、慶長5年に豊後に漂着してきたイギリス人航海士のウイリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問に迎え、14年に通商と宗教を分離する新教国オランダとの通商を認めていた。17年2月に岡本大八事件が起きると、3月に幕府直轄地にキリスト禁教令を布告して駿府城内のキリシタン信徒を弾圧、翌18年の常長派遣の直前には、江戸城下の信徒の頭28人を捕縛斬首した。
この時に小伝馬町に拘禁されて斬首直前だった宣教師ルイス・ソテロを、政宗は、答礼使ビスカイノを送還する通商使節団の通訳として乗船させたい旨、家康に助命嘆願して貰い受け、遣欧使節派遣をソテロに託した。

ルイス・ソテロは、スペイン・セビリア市の上流貴族出身、大学で法学、医学、神学を学び、フランシスコ会司祭となり、日本での布教を志してマニラで日本語を学び、慶長8年(1603年)に来日、精力的に宣教活動をしながら教会、修道院、病院などの施設を建てた。
長崎で磔にされた二十六人の受難が殉教と見做され、殉教者の遺骨と殉教報告がヨーロッパに伝わると、二十六人に対する崇敬が、禁教下の異教の地日本での布教熱を高めたといわれ、ソテロも救世主としての使命と情熱に燃えて日本へ向かったに違いない。
政宗が江戸に居た時、侍女の病を医療したソテロに金銀衣服等を贈ったところ、宗教上の理由で受けなかったことから、引見してその宗教について尋ね、ソテロの答に驚いた政宗は、ソテロを厚遇、奥州でのキリスト教の布教を、更に自領内での会堂や僧院の建築も認めた。
ソテロは、商教一致のメキシコとの直接交易を断念した家康に代わり、政宗に新たな交易船の建造と海外交易の利を説き、己の斬首の臨死体験から、幕府直轄地での布教活動を諦めて、キリスト教に理解を示す政宗に、仙台領へのキリシタン王国創設の夢を説いたに違いない。
答礼使兼探検家ビスカイノもまた、交易を希望していた家康の許可を受け、マニラからメキシコに渡る交易船の避難港を求めて三陸沿岸に調査しており、立ち寄った仙台城で政宗に謁見、海外事情を教授したに違いない。
政宗は、ソテロとビスカイノの話から海外への夢を広げ、家康が断念したメキシコ交易交渉を引き継ぐ決心を固めたのだろう。そして幕府から貰い受けたソテロに、難航するメキシコとの交易交渉を打開するため、家康が禁じた宣教師の仙台藩への派遣を容認したのである。

政宗は、なぜそこまで踏み込んだのだろうか。家康の禁教令が東北には及ぶまいと甘く見ていたのだろうか。 ヨーロッパ諸国の植民地主義的野望に気付いてキリシタン禁令を布いた秀吉や家康ほどには、キリシタンの脅威が東北の政宗には感じられていなかったのかもしれない。
政宗の遣欧使節派遣が、幕府との連携の上で進められていたことは変わらなかった。メキシコとの交易を希望する家康と秀忠の親書を携え、将軍秀忠からの具足や屏風など進物を積み、使節船の建造に幕府の船大工が動員され、使節船にメキシコまで幕府の船奉行向井将監忠勝の家臣10人ほどが乗り組んでいた。
もしかしたら家康は、商教分離のオランダと交易を進めながら、一方で世界に君臨するスペイン帝国との交易の利も共有したいと、政宗の仙台藩内に限ったキリスト教布教に暗黙の了解を与えていたのかもしれない。
当時は、関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍を打ち破ったとはいえ、難攻不落の大坂城に居座る秀頼を取り囲む豊臣恩顧の西国大名が未だ健在で、家康が全国諸大名の主体的な活動を完全に押さえ込めていたわけではない。
政宗は、己の治政下にある東北を、幕府の禁教政策で行き場を失った全国の信徒たちを迎え入れてキリシタン王国に、メキシコとの交易で経済的文化的に豊かな社会の建設を夢見ていたのではないだろうか。

大坂冬の陣の前年の慶長18年(1613年)9月、政宗は500トンの洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号を建造、家臣支倉常長と宣教師ルイス・ソテロを使節とする遣欧使節団が、仙台藩の石巻月浦を出帆した。
北太平洋の海流に乗って北アメリカ大陸へ、カリファルニア海流に乗り南下して、メキシコのアカプリコに着いたのは、日本を出帆して三カ月後である。
しかしキリスト教禁制の日本の実情を知るメキシコとの通商交渉は埒が明かず、宗主国スペインの承認を求めるべく、常長とソテロは、メキシコの砂漠と荒野を横断して、メキシコ湾から大西洋をスペインに向かった。
スペイン船で大西洋を横断すること2カ月、1614年10月にスペイン上陸。ソテロの出身地セビリアで大歓迎を受けた常長一行は、翌年1月に首都マドリッドで国王フェリペ三世に謁見、政宗の親書を手渡し、2月に国王臨席で宰相レルマ公を教父に常長は洗礼を受けて誠意を示したが、日本国内のキリシタン禁令と信徒への迫害が伝わるスペインとの交易交渉は難航した。
ローマ教皇の後押しを求めてローマに向かい、華やかなローマ入市式で歓迎された常長は、11月にサンピエトロ宮殿でローマ教皇パウロ五世に謁見、ローマ市会が公民権と貴族称号の授与を議決した。
しかし日本でのキリシタン迫害が広く伝わり、常長使節団が日本を代表するものでなく、一地方領主の派遣に過ぎないとする妨害的報告もあり、教皇の回答は、貿易のことはスペイン国王にまかせるというものだった。
1616年4月にスペインに戻り、国王からの正式な回答を求めて1年余りセビリアに居座るが、1617年7月、ついに国外退去同然にスペインを出国させられた。
主命を果たせぬまま失意の常長は、大西洋をメキシコ、そして太平洋をマニラへ、マニラに2年間滞在、元和6年(1620年)8月、便船で日本にようやく帰国した。
慶長遣欧使節が政宗の夢か野望か、次稿以降に纏めたい。


⑨徳川三代と政宗

私の郷里(宮城県大河原町)の印刷会社・北辰民報社発行の齋藤荘次郎著「伊達政宗公」に政宗と家康・秀忠・家光の逸話があった。出版された昭和10年(1935年)は、奇しくも政宗薨去三百年、宮城県河南町に生まれ、郷土の教育に献身した元教師の力作の一部を紹介する。

〇  家康の臨終 大坂が落城した翌元和二年、家康は駿府で病に罹り、政宗公は2月10日仙臺を発し、23日駿府に家康の病を問ひました。家康大いに喜び、政宗公を寝所に招き「わが大業既に成ったものゝ、未だ安心出来ませぬ。老臣宿将は漸く盡き、實に頼むべきは卿一人のみでござる。卿は秀忠を我子の如く思ふて助けられよ」と後事を託するのでありました。
政宗公は家康の心情をくみ取り「士は己を知る人のために死すとこそ申します。只今の仰せ確に承知仕りました。かほどまでに某を力になし下されまして、誠に忝う存じます。必ず御心配下さるな。徳川家のためならば何事でも微力を掲げます」と誓ふのでありました。
4月17日に家康薨去、政宗公痛く悲しみ、封内に命じて15日間、歌舞伎音曲を停止した。かくて政宗公は家康の殊過に報ひるため、徳川氏の唯一の後援者となったのであります。
 
〇  秀忠の臨終 寛永九年正月九日、将軍秀忠重病の報がありました。政宗公はいたく心を痛め、見舞いの歌を送られたが、病はだんだん悪くなるばかり、政宗公は急に仙台を発し秀忠にお見舞申し上げたところ、秀忠も殊の外喜び、政宗公に後事を託するのでありました。
政宗公は枕辺により「御心配にはおよびませぬ。必ずわれ等父子のあるうちは決して世を騒がせませぬ。お心たしかに御療養あそばせ」と、心から慰めましたが、これが此の世の最後のわかれでありました。

〇  家光の後見 寛永9年正月24日、将軍家光は、即夜喪を発して在府の諸侯を召して「権現様天下草創の時、各々の助力によって全うした。大御所(秀忠)も、その昔は各々方と同僚であった。しかし某におよんでは、生れたままの天下であるぞ。爾後は各々を家来の格式に取扱ふほどに左様承知されよ。それとも天下を望まるゝ方あらば、領国へ暇の節三ケ年まで罷り在ること苦しからず、篤と考へ天下取りたくば、弓矢をもって参られよ」と厳然といひ渡しました。
諸侯は黙々として一言も発する者がありません。この時政宗公一人出で「只今将軍の仰せを承りましたが、こゝに居られる方々はいづれも権現様の御恩を蒙りし輩なれば野心あるべき様ありません。若し不心得のある者あればこの政宗に討手を仰せつけ下さい。早速踏みつぶしませう」といひましたが、列座の者異口同音に「伊達中納言の申すとほりでございます」と答へるのでありました。

〇  政宗の臨終 政宗公は、己に死期も近づいていることを自覚して、諸臣を集め「もうわが生命もなくなった。最後に日光廟に詣で、将軍に謁してから、この世を暇申さう」と、深く覚悟するところでありました。群臣は病状を不安視して、思い留まるよう申し上げたが、政宗公は聴き入れません。
政宗公は、寛永13年4月9日、仙台若林城を後に江戸に向ひました。日光廟に詣でゝから、5月朔日、病を勉めて城に登り将軍家光に謁すれば、将軍の至極労苦を謝して、後に侍医を遣はし見舞の数々を贈られました。
5月20日には将軍親ら政宗公の邸に臨まれて見舞されました。政宗公は布団よりおきて、衣を着替へ端座してお礼を述べ「大丈夫病して褥に死す、平日の素志でありませぬ。将軍よ。宜しく祖業を恢弘して萬世を光あらしめよ」と徳川長久を祈るのでありました。
家光は、別室に入り茂庭良元らを召して「中納言の病気は容易ではない。一旦不測の変あるも余が胸中にあれば憂ふることはない」との有難いお言葉を賜わりました。
政宗と徳川三代の心の絆の深さが知れる逸話である。