
龍馬は1862年8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿します。
この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞、高杉晋作らと交流しています。
龍馬伝では高杉晋作との出会いが長崎で描かれていましたが、
龍馬の脱藩の直接の理由が長州との合流でしたから
脱藩後は盛んに長州藩士と交流を持っています。
12月5日、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともに
幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁しました。
おそらく、坂本龍馬にとって人生最大の幸運でしょう。
この英明な殿様は、どんな理由で浪人でしかない龍馬に会う気になったか不明です。
千葉道場のコネがあったのか?
これほどまでの大物に会うには、よほどのコネが必要だった筈です。
逆に真っ向勝負で突撃したら
英明な殿様は、あっけなく受けて立ったということでしょうか?
12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた
龍馬と門田為之助、近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となります。
龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、
逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、
己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られています。
この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典です。
しかし、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であったこと、
また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には
既に龍馬は弟子であった可能性が高いことから、
近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の記憶違い、
またはホラとする見方が強いです。
いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を
「日本第一の人物」と称賛していることによく現れています。
龍馬は生涯の師に出逢えた訳です。
彼は、自分で物事を考えるタイプの人間ではありません。
ここまでの人生は決して自分の人生を自分で切り開いた訳ではありません。
脱藩は長州の天才児、久坂玄端の影響です。
直接の切っ掛けを作ったのは沢村惣之丞(さわむら そうのじょう)です。
沢村惣之丞は土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市潮江)の浪人の子として生まれます。
間崎哲馬に師事し、学問を学び、その後、土佐勤王党に加入。
1862年に吉村寅太郎と共に土佐藩を脱藩。
武市半平太への現状報告と新たな同士を集めるため一時帰国しますが、
その後、坂本龍馬と再び脱藩します。
龍馬とともに勝海舟の門下生となり、
亀山社中に参加します。そして海援隊に属します。
1867年には坂本龍馬殺害事件の容疑者であった
三浦休太郎の暗殺計画に参加しますが、失敗に終わりました。
翌年には維新の混乱から無人状態となった長崎奉行所に、
沢村ら海援隊の人間が中心となって入居し、
長崎の町を警備します。
しかし1月14日の警備中、薩摩藩士・川端平助を誤殺してしまいます。
沢村は薩摩藩との軋轢を恐れ、海援隊本部で、
薩摩藩側でさえ止めましたが割腹した。
享年26。
龍馬とともに生きた人生でした。
海舟は山内容堂に取り成して、1863年2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、
さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認しました。
龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、
土佐藩出身者の千屋寅之助、新宮馬之助、望月亀弥太、
近藤長次郎、沢村惣之丞、高松太郎(龍馬の甥)、安岡金馬らが海舟の門人に加わっています。
勝海舟についてはこちらをどうぞ
また、龍馬が人斬り以蔵の異名を持つ土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、
海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件は
この頃のことです。
幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために
海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させます。
4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、
「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められます。
この辺の経緯についてはこちらを参照してください
幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、
この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、
そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春獄から千両を借入れしました。
5月17日付の姉乙女への手紙で
「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、
ことの外かわいがられ候
・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。
エヘン、エヘン」と近況を知らせています。
ちょっと調子に乗った龍馬の姉への愛情溢れる手紙です。
ではでは
