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ミネルヴァのフクロウのブログ

歴史を自分なりに考えて書いてます。寝る前の読書にお勧めです。

こんにちはニコニコ


龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は
彼らの航海術の専門知識を重視していました。

1865年5月頃に龍馬らに出資して「亀山社中」を結成させます。
これは商業活動に従事する近代的な株式会社に
類似した性格(あくまで類似!!!)を持つ組織でした。

当時、商人が参集していた長崎の小曽根英四郎家を根拠地として、
下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置します。

長州藩では前年の1864年12月に高杉晋作が挙兵して、
幕府恭順派政権を倒して、再び、尊攘派が政権を掌握します。
功山寺挙兵です。
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、
当時、犬猿の関係にあった薩長両藩和解も目的に含まれていました。
後の薩長同盟成立に貢献することになります。


幕府勢力から一連の打撃を受けて、
長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する
根強い反感と憎しみが生まれ、
一部の藩士は共に天を戴かずと心中に誓い、
例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に
書き踏みつけて鬱憤(うっぷん)を晴らす者がいたほどでした。

この様な雰囲気の元でも、
土佐脱藩志士 中岡慎太郎とその同志 土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、
これをもって武力討幕を望んでいました。

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)は土佐安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に
北川郷の大庄屋 中岡小傳次、はつの長男として生まれます。
龍馬と同じく実家は大変裕福でした。
武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学び、
1861年に武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を始めます。
1862年、長州の俊英 久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、
国防・政治改革について議論し、大いに意識を高めます。
龍馬と同じように武市半平太から離れ、久坂玄瑞へと軸足をずらしていった土佐藩士です。
1863年、京都での八月十八日の政変後、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、
速やかに藩を脱藩します。
同年9月、長州藩三田尻(現防府市)に亡命。
以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となります。
また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(「衛士」)となり、
長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となります。
1864年、石川誠之助を名乗り上洛。
なんと薩摩藩の島津久光暗殺を画策しました。
しかし、果たせず、(これが成功したら薩長同盟はなかった)
また、脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷します。
長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、
彼は自らの活動方針を単なる尊皇攘夷論から
雄藩連合による武力倒幕論に発展させていきます。
中岡慎太郎自身のこの頃の手紙によると彼の考えは明確です。
そして、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と
薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を
志士たちの第一の悲願として活動し始めます。
三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、
薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、
亀山社中の坂本龍馬と三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも
説き伏せて巻き込んで行きます。
そう、薩長同盟は彼の考えであり、計画です。
龍馬は途中から協力したのが事実です。

1865年5月、先ず土方と龍馬が協同して長州の桂小五郎を説得し、
下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させます。
同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説きました。

同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、
「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけでした。

西郷は下関へ向かっていましたが、
途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために
急ぎ京都へ向かっいます。
藩命でしたから西郷自身に非があった訳ではありません。
しかし、事情を知らない桂小五郎は激怒して、
和談の進展は不可能になったかに見えたした。

しかし、龍馬と中岡は薩長和解を諦めませんでした。

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、
幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、
長州藩は近代的兵器の導入が難しくなります。

一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していました。

ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、
その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案します。

取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。
この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、
両藩ともこれに首肯します。
武器の欲しい高杉晋作と米の欲しい小松帯刀の思惑が合致した瞬間です。

これが亀山社中の初仕事になり、
8月、長崎のグラバー商会からミニエール銃4,300挺、
ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功。

これは同時に薩長和解の最初の契機となります。
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより
薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に
成功し、所有権を巡って紆余曲折はありましたが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、
同船の運航は亀山社中に委ねられることになります。


近藤長次郎は高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、
長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、
はじめは苗字がなく、
饅頭屋長次郎と呼ばれていました。
幼少期から聡明で土佐では河田小龍、江戸では安積艮斎らに学びました。
その才能を山内容堂にも認められて1863年に名字帯刀を許された上で、
神戸海軍操練所に入ります。
岩崎弥太郎とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っています。
同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、
龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立しました。
龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡しています。
このとき、長次郎は長州藩主の毛利敬親から謝礼の言葉を直々に頂いています。
龍馬伝では長次郎の活躍が良く書かれていましたが、
軍艦を適正な価格で買うというのは、相場と機能を理解する必要があり、
当時の日本人で、それができたのは数人しかいなかったと思われます。
そして長次郎は汽船・ユニオン号を購入したが、
このときに長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いを起こしてしまいます。
しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払いました。

9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の
「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保一蔵の書簡を、
長州藩重役広沢真臣に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されています。

その後、長次郎は密航を企てて失敗した後、
割腹自殺します。
いわゆる長次郎事件です。
長次郎は亀山社中の社員として、
長州藩から依頼のあった汽船ユニオン号の売買に尽力したことから、
長州藩から謝礼金を受けました。
しかし、受け取った謝礼金の一部で、仲間には内緒でイギリスへの留学を計画します。
武器商人トーマス・グラバーの船に乗船してイギリスへ向かおうとしますが、
悪天候のため長崎に引き返し、さらに仲間に見つかってしまいます。
このため、亀山社中の社中盟約書に違反したとして、
仲間たちより追及を受けたのち、責任をとって小曽根邸で切腹しました。
このとき切腹を命じたのは龍馬自身であるという説が一部にありますが、
当時、龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在でした。
長次郎の切腹は、
龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高いというのが現在の定説です。

享年29歳。

才能ある若者が、またひとり命を散らします。

なお、龍馬の妻であるお龍は後に
回顧録『千里駒後日譚』(せんりのこまごじつのはなし)の中で
長次郎の訃報を聞いた龍馬が
「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残しています。

葬儀は社中の者であげました。
墓は皓台寺墓地内の高島秋帆(幕末期砲術家)の墓の裏手(山側)に
ひっそりと建てられていましたが、
現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されています。
墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されています。
筆跡は龍馬のものとされています。

龍馬は後に、
「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(長次郎の変名上杉宋次郎のこと)身を亡ぼす所以なり」
と嘆いたといいます。

トーマス・グラバーは長次郎を非常に高くかっていました。
彼はこの事件を切っ掛けに龍馬に批判的になって行きます。
商人ですから、ビジネスは別ですが。。。


ではではパー


こんにちはニコニコ


また、間が空いてしまいました。

続けます。

1864年5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、
後に彼女を懇意にしていた寺田屋の女将お登勢に預けています。
龍馬伝では、全く書かれていませんが、
お登勢には、娘がおり、当時の龍馬について語っています。

当時の志士達は、貧しいものがほとんどだったが、
龍馬は実家が裕福だったためか、服装に気を使い、シャレものだったとか


5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足します。
6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、
京摂の過激の輩数十人(或いは200人程)を蝦夷地開拓に送り込む構想を話し、
老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べています。
龍馬にとって北海道開拓の夢は真剣なもので、
のちに坂本家を継いだ甥は北海道へ移住します。


だが、この時点では龍馬と海舟は知りませんでしたが、
6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていました。
池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、
長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、
死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいました。
北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、
北海道開拓の中心人物でした。
同士を多く失い、北海道開拓の夢は、立ち行かなくなります。

また、望月は神戸海軍塾の塾生でした。


八月十八日の政変と池田屋事件の後、
長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃されました。

7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約三千が御所を目指して進軍しましたが、
一日の戦闘で幕府勢力に敗れました(禁門の変)。
ここで龍馬にとっては、大きな影響を与えた久坂が自害します。

それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による
下関砲撃を受けて大打撃を蒙ります(下関戦争)。


禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、
幕府はこの機に長州征伐を発令します。

二度の敗戦により長州藩には抵抗する戦力はなく、
11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順しました(長州征討)。


お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げています。


8月中旬頃に龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、
龍馬は海舟に対して西郷の印象を
「分からぬ奴で、少し叩けば少し響き、
 大きく叩けば大きく響く、馬鹿なら大馬鹿、
 利口なら大利口だろう」と評しています。


望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことから、
幕府は塾そのものを問題視します。

さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、
10月22日に海舟は江戸召還を命じられ、
11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまいます。


これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、
龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は
江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、
薩摩藩の庇護を依頼します。


1865年3月18日に神戸海軍操練所は廃止になりました。


龍馬の夢は、またひとつ潰えます。



ではではパー
こんにちは


坂本龍馬のつづきです。

龍馬が神戸海軍操練所成立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、
下士の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた容堂は
再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、
土佐勤王党の粛清に乗り出します。

6月に勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が切腹。
平井の妹加尾は龍馬の恋人とされた女性で、
龍馬は6月29日付の手紙で
姉乙女へ
「平井収二郎のことは誠にむごい、
 妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っています。

また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して
苦杯を喫した長州藩の情勢(下関戦争)について
強い危機感を抱き
「姦吏を打ち殺して、日本を今一度洗濯いたし申し候」と
後に世で殊に有名になった言葉を述べています。

打ち殺してという一句がついている事に注目してください。
これは、クーデター宣言です。
この頃の龍馬は、後の公武合体派としての活動以上に
幕臣に近い身でありながら(勝の海軍操練所は幕府の設備です)
親長州であり、幕府にとっては危険な思想的背景を持っています。
これは、久坂の影響下にまだ、彼があった事を物語ります。

8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を
一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み
「八月十八日の政変」が起きます。

これにより京都の政情は一変し、
佐幕派が再び実権を握りました。

8月に天誅組が大和国で挙兵しましたが、
翌9月に壊滅して吉村虎太郎、那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしています。

土佐では9月に武市半平太が投獄され、
土佐勤王党は壊滅状態に陥ります。
武市は1年半の入牢後、切腹となります。
詳しくはこちらをどうぞ

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭になりますが、
翌1864年2月に前年に申請した土佐への帰国延期申請が拒否されると、
龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、
藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩になります。

2月9日、海舟は前年5月から続いている長州藩による
関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、
龍馬もこれに同行しました。


熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、
小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をしています。

のちに船中八策といわれる発想は、龍馬のオリジナルではありません。
横井小楠は船中八策の原案となる『国是七条』を龍馬に説いています。
龍馬の感激ぶりは凄まじく、勝海舟に次いで彼は師に出逢えた喜びに歓喜します。

横井小楠は鎖国体制・幕藩体制を批判し、
それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を
「公共」と「交易」の立場から模索しました。
小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、
「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を
政治運営のもっとも重要な営為として重視しました。
また、「交易」を重視する立場から、
外国との通商貿易をすすめ、
産業の振興をも「交易」として捉えて
国内における自律的な経済発展の方策を建議し、
そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いています。

まさに日本の近代化の父といえる人物です。


ではではパー