秀吉の興隆ー本能寺の変4 高松城水攻めー | ミネルヴァのフクロウのブログ

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こんにちはニコニコ


秀吉は、即座に堤防工事に着手。
この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から
蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの
東南約4km、高さ8m、底部24m、上幅12mにわたる堅固な長堤を造り、
足守川の水をせきとめるものでした。

築堤奉行には蜂須賀正勝が任命され、
宇喜多忠家が黒田孝高の指導のもと
難所の門前村から下出田村までを担当。
原古才村を蜂須賀氏が、
松井から本小山までを堀尾吉晴、生駒親正、木下備中、桑山重晴、戸田正治らが、
蛙ヶ鼻より先を但馬衆が担当。

浅野長政は船や船頭を集めて備中高松城が
湖に浮かぶ島になった際の
城攻めの準備にあたります。

工事には士卒や農民らを動員し、
1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えています。

堤防は5月8日の工事着手から12日で完成し、
梅雨の時期にあたって
降り続いた雨によって足守川が増水して
200haもの湖が出現します。

高松城は孤島と化してしまいました。

堤防を完成させた秀吉は堤防の上に
見張り場を設けて城内の様子を監視します。

一方、城内では水攻めに動揺し、物資の補給路を断たれます。

毛利の援軍は秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、
さらに信長の援軍が送られてくることから、
秀吉との講和を決意します。

秀吉が中国地方攻略に来てから
初めて毛利は後詰め(救援)にやってきました。
そして、あっけなく講和です。
この段階で毛利は完全に織田の支配下に下ったといってもいいでしょう。
中国地方の全ての国人領主は、毛利を見限った瞬間です。

毛利方は軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、
「五国割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示します。
しかし、秀吉はこれを拒否して
「五国割譲と城主・清水宗治の切腹」を要求したため、
交渉はいったん物別れに終わります。
毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、
秀吉に降伏すべきという旨を伝えたが、
宗治は自分の命を城とともにしたいと、
これを拒否。

毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みます。

すると何故か、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら
自分の首はいとも安いと述べ、
自らと兄である清月と家臣の難波伝兵衛、末近左衛門の4人の首を差し出す代わりに
籠城者の命を助けてほしいという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託します。

6月3日夜、秀吉方は明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、
信長が明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命したという密書を手にしたようです。

秀吉は、一刻も早く毛利と和睦して
明智光秀を討つため上洛する方針を固めます。


ではではパー