光秀の覚悟ー本能寺の変ー | ミネルヴァのフクロウのブログ

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こんにちはニコニコ


ついに本能寺の変です。

書きたくないガーン
悲しすぎますしょぼん


1582年までに、信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、
3月に武田氏を滅ぼしました。
関東の北条氏、東北の伊達氏は信長に恭順する姿勢を見せていて、
信長の目下の敵は、
中国の毛利氏
四国の長宗我部氏
北陸の上杉氏
九州の島津氏となります。

信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、
織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつありました。

上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の謀反によって
関東・越後国から猛攻をかけ信玄を苦しめた強力な軍勢は弱体化しています。

四国では三好康長が信長に属し、
丹羽長秀の補佐を受けた神戸(織田)信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、
すでに織田氏が有利な情勢でした。
何より四国の軍勢は東北を除くともっとも近代化が遅れていました。

九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、
島津氏は単独で信長に対抗するしかない情勢でした。

信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば
天下は信長のものになると誰もが思う情勢でした。

その一方で、多くの兵力を派遣していたため
信長周辺の軍勢は手薄であり、
畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していました。
そこを明智光秀の軍が襲撃したのが本能寺の変です。

明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、
長年、武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を5月15日より務めます。
17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、
羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられました。
解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためです。
26日には丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めます。
愛宕権現に参篭し、
28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催します。

この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があります。
句の解釈は種々あり、
まあ歌ですから、いくらでも深読みできるのは、日本の伝統文化です。

秀吉応援のために中国地方に出陣するの以上、
丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向で、
1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、
軍事上考えられない矛盾があります。

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため
小姓衆を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発ちます。
同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待ちました。
同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入ります。
翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いています。

本能寺は無防備な寺ではなく、
1580年年2月には本堂を改築し、
堀・土居・石垣・厩を新設するなど、
防御面にもそれなりの改造を施されていました。
2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、
本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、
護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。


同じ6月1日の夕方、光秀は1万3,000人の手勢を率いて
丹波亀山城を出陣し京に向かいます。
翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したといわれています。
(物語としてはいいですが、資料的には信憑性が低いです。)
大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと
言う説もあります。
またルイス・フロイスの『日本史』や、
本能寺の変に従軍した光秀配下の武士が
江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、
下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れます。

6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲しました。


ではではパー