ミネルヴァのフクロウのブログ

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歴史を自分なりに考えて書いてます。寝る前の読書にお勧めです。

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年末になり坂の上の雲が楽しみな季節ですね。

日露戦争や第一次世界大戦の映画やドキュメンタリーを見ていて
いつも考えるのクロスファイヤをどう打破するかという戦術論です。


結論から言えば、たぶん地上戦のみでこれを打破する戦術は
生まれていない訳ですから僕ごときが考えても無理なんでしょうけど。。。

クロスファイヤは日本語で十字砲火と訳されますが、
正確な定義をすれば、塹壕線における機関銃の交差弾幕になります。

もともと塹壕戦は、攻城戦の一戦術でした。
火器の発達から城を攻めるのが難しくなります。
兵士は身を守るために塹壕を掘りました。
塹壕を横に広げて城を包囲します。
斜めに塹壕を掘って(斜線に)前進します。
ジグザグに塹壕を掘りながら、前に進み、城塞に取り付くという戦術です。

鉄砲が戦争を変えた訳ですが、
日本の歴史では、塹壕戦の原型を長篠の戦に見ることができます。
野戦築城という表現で以前散々書きましたが、
その発展形態が、日露戦争で行われました。

日露戦争は、本格的に機関銃が導入された始めての近代戦争でした。

当時の最新兵器をロシア軍も日本軍も積極的に導入しました。
この2カ国が、もっとも戦争に対する危機感を持っていたためでしょう。
どの国よりも早く広く実戦配備が行われ、各戦線で使用されました。


坂の上の雲で描かれているように
要塞や塹壕によって作られた防衛線を突破する戦争は
3つの兵器の発明・普及によって大変困難なものになります。

1つは、機関銃に代表される高速発射が可能な火気が開発されました。
弾幕という言葉が意味するように人間には突破が非常に困難な状況が
つくりだされた訳です。

2つ目は、鉄条網です。まさに安価な大量生産が可能で
消費社会の申し子のような兵器です。日常社会にも利用されていて
我々でも眼にすることがあります。
しかし、これほど効果的な、費用効果の高い兵器はなく、
確実に歩兵の足を止め、機関銃の餌食へと効率よく変えていくものは
ありません。

最後は20世紀の悪夢というのにふさわしい地雷です。
地雷網も発見が難しく、戦後も長く地域住民を苦しめる最悪の兵器です。


塹壕線は、こうした兵器を生身の人間が乗り越え、屍を作りながら
突破するものとして日露戦争で現れたものでした。
日露戦争当時は、地雷がまだ普及していなかったとはいえ、
日本軍第3軍(乃木軍)が、戦争史上、歴史上ありえない死傷者率を出したのは、
悪夢としかいえません。
第一師団の犠牲者数は、戦国時代なら敵に寝返るのが当たり前、
第3軍に忠誠を誓う義理も理由も吹き飛ぶものです。

第一次世界大戦では、西部戦線が塹壕線に突入し、
多くの犠牲を出しました。

最終的に人海戦術による兵士の犠牲を覚悟した塹壕突破しか
人類は、この悪夢なような戦争を終わらせる方法を見出していません。

戦車は、最初有効な兵器に思われましたが。
塹壕の幅が大きく、深いと役に立ちません。

爆撃機という新たな兵器が登場して
平地における塹壕攻略は、可能になりました。
しかし、第二次世界大戦の硫黄島や沖縄戦のように
地下や密林といった戦場では、爆撃だけでは、
世界最強のアメリカ軍も勝てませんでした。

日本では硫黄島の戦いの詳細は、あまり知られていません。
2万3千の日本軍に11万のアメリカ軍が硫黄島攻略のために
包囲展開した戦いです。
火力で日本軍を圧倒したアメリカ軍が勝つのは
戦前から分かりきったものでした。
しかしアメリカ軍は砲艦射撃と航空機による爆撃だけでは、
硫黄島は占領できません。
占領は最後的には、歩兵にしかできない作戦です。
日本軍は徹底抗戦を敢行し、1万7千人を超える戦死者を出します。
戦略上、どう考えても無駄死にです。
死んだ兵士の方々には、大変心苦しい表現ですし、適切ではありませんが、
どう取り繕っても事実は変わりません。
しかし、日本人戦死者はアメリカ軍に甚大な被害を与えました。
アメリカ軍は圧倒的に有利であったにもかかわらず、
7千人弱の戦死者と2万人を超える戦傷者を出します。
のちのベトナム戦争を予感させる戦いでもありました。
塹壕に潜む日本兵は、機関銃とライフル銃でアメリカ軍を苦しめます。
火炎放射器が有効に使われたと思われがちですが、
火炎放射器は射程距離が短いため、接近戦になるまでは
使えませんでした。

クロスファイヤは地上では解決が難しいため、
空へと兵器を進化させていきます。
爆撃機、長距離砲、ミサイルと進化を重ね、
兵器はより高価で、殺傷能力が高いものになりました。
そして今日の戦争へと引き継がれています。
アフガニスタンでアメリカ軍が使っている爆撃機の
爆弾は、恐ろしいものです。
東京大空襲で使われた焼夷弾が子供のおもちゃに感じられます。
そして戦術で解決できない以上、戦略で対抗する必要から、
第二次世界大戦のドイツ軍の電撃戦が生まれました。
こうした歴史の大きな流れの最初の一歩が日露戦争でした。
極東の果てで行われた戦争の一進一退が
世界中にニュースとして流れた最初の戦争でもありました。
しかし、塹壕線の真の意味を世界が理解したのは、
第一次世界大戦の西部戦線まで待つことになります。
当事者である日本軍は、部分的にしか日露戦争の教訓を活かせませんでした。
第一次世界大戦にヨーロッパ戦線に参加しなかったのは、
当時の政治上の判断では、絶対的に正しいものでしたが、
日本陸軍史として考えると致命的だったといえるかもしれません。
ヨーロッパ戦線への度重なる参戦要求に日本政府は海軍のみを派遣しました。
ノモンハン事件(事実上の日ソ戦争)で日本陸軍は完全敗亡を経験しますが、
ノモンハン事件という名が示すようにいまだに戦争として位置付けられていません。
あれは、完全な戦争であり、モンゴルの大地で行われた広大な局地戦でした。
日本陸軍の完璧な敗北。
ここから第二次世界大戦に向かう日本陸軍の無能・無謀は目に余るものがあります。
第二次世界大戦における日本陸軍の能力は、
第一次世界大戦を戦い抜いた列強諸国に比べて三流国に転落しています。
日中戦争で中国軍に勝ちきれないのですから。
ソ連・アメリカと戦える戦力などありません。
この事実に対する危機感が陸軍にはありません。
海軍との大きな違いです。
海軍はアメリカに勝てないことを十分に意識していました。


すこしずれました。
いつも日露戦争では、
陸軍は旅順攻略をどうすべきだったのだろうと考えます。
この当時の陸軍は状況分析能力がありました。
ロシア陸軍全軍100万を相手に勝てないことを分かっていました。
財力・戦力といった国力が違いすぎます。

坂の上の雲では、旅順艦隊砲撃のために203高地がクローズアップされます。
実際、大本営は、かなり203高地にこだわりました。

日本が基本戦略を2つ持っていました。
陸軍は朝鮮半島から上陸し奉天攻略です。
海軍は日本海の制海権の確保です。(陸軍の補給線の確保)
この状態で和平工作を有利に終結する。
とてもシンプルな戦略です。
問題は、2つありました。
1つは、戦費が確保できないため、陸軍は弾薬をはじめとした補給が十分に
できないことは、始めから分かっていました。
もう1つは、海軍が日本海の制海権を確保するには、ロシア艦隊を各個撃破する
必要がありました。


陸軍から見た場合、旅順は、満州南方のロシアの最大拠点でした。
北方の戦線に攻撃を集中したい陸軍は、ロシアの旅順の兵力が北上し、
挟撃されることを恐れます。
そのため第3軍が派遣さえることになりますが、
旅順を攻略する必要は、陸軍にはありません。
ロシア軍を封じ込めればいい訳です。
陸軍は強固な防衛線を構築し、半島の先端にある旅順の補給路を断って
長期戦に持ち込めば、この局地戦は有利に戦況を進められます。
防衛線に戦力はとられますが、旅順要塞を攻略して受けるであろう
甚大な被害を考えれば、北方にまわせる戦力ははるかに大きなものです。
陸軍は、当初は旅順攻略を考えていなかったと考えられます。
実際、半島を封鎖したあと、のんびり構えていました。

海軍の視点から見た場合、旅順攻略は必須かというと、
答えはNOです。旅順艦隊を壊滅する必要はありましたが、
旅順要塞そのものを攻略する必要はありません。


そこでクローズアップされるのが203高地です。
203高地は、ロシアの旅順防衛線から外れたいました。
長距離砲の命中精度を上げるために
旅順の観測地点として確保するだけですから
目標が達成されるまでの間、確保すればいいだけです。
長期に確保する必要はありません。2日もあれば十分でした。
ただ、旅順を観測できる地点は複数あります。
陸軍は203高地を確保する以前から旅順に砲撃を加えていました。

結果論として語れば203高地の確保は、観測地点として役に立ちませんでした。
旅順が見えなかったというのではなく、
日本陸軍が、既に旅順艦隊殲滅という目標を達成していたからです。
その戦果が黄海会戦でした。海軍は旅順艦隊に逃げられましたが、
そもそも旅順港にいられなくなったから、旅順艦隊は黄海に出てきた訳ですから。


ロシアの旅順要塞は、203高地で予備兵力を使い果たし、
陥落しますが、本来、攻略する必要のない戦いでした。
当時としては、陸軍の意地であり、軍を維持するのには必要な行動でしょう。
正確な情報把握と戦況分析が必要でしたが、
重視されず、戦後は十分な反省・総括が行われませんでした。
桂内閣は、国家崩壊の寸前まで追い込まれていましたが、
国民に真実を話すことなく、ロシアと賠償金なしで和睦を結びます。


結局は、最終目標を当初に明確に示さなかった陸軍幹部による
無益な犠牲と言えます。
面子と無責任。ひたすら自己反省をおこなわない、
無責任な、ひたすら無責任な行動をとり続ける官僚主義。
現在の日本の官僚の原型です。
旅順艦隊殲滅だけを目標に掲げれいれば、要塞攻略という戦略上必要のない
戦力の分散と犠牲を出さずに済みました。203高地の攻略も同様です。


第二次世界大戦へと向かう悲しい戦いが、
近代以降、もっとも無能な陸軍の誕生に向かった流れが
すでに始まっていたといえます。

ペタしてね














こんにちはニコニコ


ちびびさんにお答えしてフルベッキ写真について。
プレゼント有難うございますニコニコ


「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその次女・エマ(夭逝した長女と同名)を囲んで、
致遠館の塾生と岩倉具定・具経兄弟などが集まり、
写真師上野彦馬によって撮影された写真です。

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現在の研究では、撮影時期は1868年12月(明治元年10月-11月)頃とほぼ特定されています。
決めてはエマの年齢です。

この写真は古くから知られていて、
1895年(明治28年)には雑誌『太陽』で佐賀の学生達の集合写真として紹介されました。
その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも
「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されています。

岩倉具定(いわくらともさだ)は1852年1月18日生まれ、宮内大臣になります。
岩倉具視の第三子(次男)として京都に生まれました。
この写真は、彼が学生時代の写真になります。
戊辰戦争に従軍し各地を転戦。
1870年(明治3)アメリカに留学、帰国後政府に出仕。
1882年(明治15)伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡ります。
1884年(明治17)に家督を継ぎ公爵。
帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院院長を歴任。
1900年(明治33)枢密顧問官、
1909年(明治42)宮内大臣となります。
具定の五男岩倉具顕の息子の岩倉具憲はパシフィックホテル社長。
具憲の姉 小桜葉子(岩倉具子)は女優。
小桜葉子の息子(具定のひ孫)は歌手・俳優 加山雄三。
若大将の祖先です。


1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、
この写真には西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・大隈重信らが
写っているとする論文を発表しました。
翌々年にはこの論文の続編を同誌に発表。
島田は彼らが写っているという前提で、
写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。

佐賀の学生として紹介された理由は、
敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、
偽装されたものだとしました。

阿呆な理由です。


この説は学会では問題にされませんでしたが、
一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていました。

この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向があります。

ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は

22人

でしたが、

流通する度に徐々に増加。

現在では

44人

全てに維新前後の有名人物の名がつけられています。


個人的には、ただの佐賀の学生達の写真だと思います。
この時期、佐賀に維新の志士達が集まる理由もありません。
この写真は、誰が撮ったかも誰を撮ったかも
いつ撮ったかも、はっきりしていて議論の余地はありません。
撮影した時にはっきりと述べられている物を
後世の人々がおもしろおかしく尾ひれを付けているだけです。
明治天皇が写っているというのは、あまりに荒唐無稽です。
坂本龍馬は、この写真の頃には、すでに死んでいます。

ごめんなさいm(_ _ )mちびびさん。
期待を裏切ってしまったかもしれません。



ではではパー



こんにちはニコニコ


1866年1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、
桂と西郷の会談が開かれました。
だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。
会話が始まらなかったとも伝えられています。
龍馬が1月20日に下関から
京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、
桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えたといいます。
そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、
これにより薩長両藩は1月22日に
薩摩側が西郷と小松帯刀、
長州は桂が代表となり、
龍馬が立会人となって列席して、
薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結びました。

龍馬伝では、話がすすまない事情を
桂が龍馬を待っていたためとしていましたが、
いままで語られた会談としては、
一番、説得力があるものでした。
龍馬到着後、会談は成立する訳ですが、
意外と作家の想像力が正解かもしれません。
当事者達は、この辺の事情を明確に残しませんでしたから、
いままで語られて物もほとんどが想像です。

盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、
帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求しています。
天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、
彼がいかに信を得ていたかがわかります。
同時に長州がどれだけ追詰められていたかが、
如実に現れていると言えます。

さて、同盟の内容です。

内容は6条からなります。
桂小五郎から内容確認のために送られた書状によって
我々はその同盟の内容を知る事ができます。


一、戦いと相成候時は、
すぐさま二千余の兵を急速差登し、
只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、
京阪両所相固め候事


一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、
其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事


一、万一敗色に相成り候とも、
一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き
其間には必ず尽力の次第これあり候との事


一、是なりにて幕兵東帰せし時は、
きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事


一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、
勿体なくも朝廷を擁し奉り、
正義を抗し、
周旋尽力の道を相遮り候時は、
終に決戦に及ぶほかこれなくとの事

一、冤罪も御免の上は、
双方とも誠心を以て相合し、
皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、
いづれの道にしても、
今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、
御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり


坂本龍馬が桂小五郎の求めに応じて裏面に朱書で、裏書署名しています。

表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、
毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。 

小は小松帯刀、西は西郷隆盛、龍は坂本龍馬、毛は毛利=長州藩のことです。


盟約成立から程ない1月23日、
龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げます。
だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていました。
伏見奉行所は、かなり早い時期から薩長同盟の動きを掴んでいたようで
龍馬の存在を同盟終結後、その日には把握していたようです。


明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が
窓外の異常を察知して袷(あわせ)一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせます。
すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、
龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を
三吉は長槍をもって応戦しますが、
多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られます。
なんとか両人は屋外に脱出。
負傷した龍馬は材木場に潜み、
三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めました。
このとき、三吉が切腹を覚悟したのは有名な話です。
これにより龍馬は薩摩藩に救出されます。
それを聞き及んだ幕府の伏見奉行所側は、
再三にわたり、伏見薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが、
これを「知らぬ存ぜぬ」で押し通し、
龍馬たちの鹿児島への脱出の機会を窺わせました。
その後、坂本龍馬たちは京師の錦小路藩邸へと移ります。

寺田屋での遭難の様子を
龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告しています。

寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、
以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。

小松帯刀の勧めにより、
刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は
2月29日に薩摩藩船「三邦丸」に便乗してお龍を伴い京都をでます。

3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留しました。
接待役は家老である小松帯刀が自ら勤めています。
二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、などを巡りました。

温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、
これが日本最初の新婚旅行とされています。

ただ、この温泉治療自体が、小松帯刀のプロデュースで、
彼が、新婚の時に病気療養のために行った旅行を再現したものです。
旅の途中で、同じく温泉治療中の小松帯刀と龍馬は合流しています。

こうして、龍馬は、薩摩最大の実力者、家老 小松帯刀の後ろ盾を得ます。
それは、イギリス公使とつながるコネクションであり、
長崎で亀山社中は絶大な信用を得る事に成ります。

全然別件ですが、
現在、寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、
事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや
「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、
当時そのままの建物であるかのような説明がされています。
しかし、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されていて、
特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に
増築登記がなされている点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。
2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、
京都市は当時の記録等を調査し、
同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、
現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は
後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものと公式に結論を出しています。


だまされないようにグー

この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が
営業を始めたものであり、
「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はありません。

ではではパー