なんと広島大会は1400人超がお見えになりました。 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 「高市大臣、総理のおひざ元に殴り込み」と見出しを売った新聞もありましたが、昨日の広島市、つまり岸田総理のおひざ元で開催された高市早苗&門田隆将のダブル講演会にはなんと1400人超がお見えになり、広島国際会議場のフェニックスホールのなんと三階席までお客様を誘導しなければならない事態になったのです。

 

 今回は今までの会場とは一時間早い13時開演でした。わたしも11時半に会場に着くとすでに多くの人が受け付け、セキュリティチェックのところで混乱が始まっていました。

 

 大きな会場の割にはホールが狭いので、受付を終えたお客様の金属探知機を通るための列があふれかえり始めていたので、さっそくお泊り道具の入ったバッグを片手に持ちながら、人の列の折り返し地点を作るのをお手伝いしました。

 

 こういう時は、遠慮をしていると誰も言うことを聞いてくれませんので、ここからあちら側に並んでくださいという列の作り混乱を防ぎました。それはまだ11時半の段階であり、その後はもっと長い列ができたと聞いています。

 

 人の流れは地元の実行委員の方々にお任せして、会場内に入るとステージから5列目がぽっかりと開いています。昨日までの打ち合わせでは、前方は実行委員が選んだ方々、つまり身元の確かな人を座らせるとなっていたはずなのですが、県警のマニュアル通りに開いていたのをちょうど埋めるところでしたが、そこもちょっとお手伝いしましたが、元警察の方が仕切っておられたので、任せてステージ内に。

 

 今回は司会はフリーアナウンサーがおられたので、そこで全体の流れとセリフとトーンを綿密に打ち合わせしました。というのも、いつもの司会のトーンでは盛り上がりを早い段階で作ることができないので、「原稿を読むのではなく、会場に語り掛けてください」とお願いし、その司会の方は立派にその役目を果たしていただきました。

 

 開始時間の一時になっても続々とお客様がお見えになっていましたが、一階の1000人のところは、もう満席となり、二階に誘導し始めたと報告を元衆議院議員の長尾たかし氏より聞き、心の中で「トラトラトラや(我奇襲に成功セリ)」と確信しました。

 

 私は時間通り来ていただいたお客様を優先に考えますので、司会の人にゴーサインを出し、会を始めました。

 

 最初は全員起立して国歌斉唱です。不思議なことでいつも国歌斉唱をすると会場が一つにまとまるのです。

 

 大会委員長の徳山威雄氏が挨拶を始めましたが、この徳山氏は福山市選出の市会議員を30年以上務められた重鎮です。

 

 しかし、広島市で行う大会の委員長が一時間以上離れた福山市からしか出せなかったというのがこの広島大会の難しさを物語ります。

 

 色々妨害がありましたが、まずこの大会委員長の選出の段階から始まっていたのです。

 

 福岡大会及び九州で行われる大会では九電の松尾新吾元会長が二つ返事でお受けいただき、トップが決まるとすぐに下部組織が決まっていったので、ここから広島大会の難易度の高さがわかると思います。

 

 広島には特別強い知り合いがいたわけではありませんが、戦略上どうしても広島で開催したかったのです。その理由はわかりますよね。

 

 そこでFBのEさんに連絡を取り、この大会を引き受けてくれる人を探せないかとお願いしました。その方も現状を憂いておられる方だったので、Yさんから今回実行委員長のH氏に繋がり、そこからの展開でした。それは今年の1月ごろからだったと思います。

 

 広島県の地理的なこともわからないので、広島市で行うことの難しさを理解せずにただ戦略的思考で無理にお願いしたのです。

 

 やはり、実行委員会の中でもいろんな内紛が続き、初めに実行委員長に就いていた人を、直前に交代していただくほどの混乱を生じていました。

 

 そして新実行委員長のH氏は5月19日からの新総統就任式に出席されたので、直前の4日間も留守にしたのです。

 

 しかし、これが功を奏しました。なんせこの福岡台援隊 台湾新総統慶祝訪問団には門田隆将氏や山口敬之氏も参加しており、現地でH氏が必死で皆さんに応援を要請していたのです。

 

 結局当日8人の人が福岡や大分や神戸や東京から参集していただき、手慣れた金属探知機等の業務をお手伝いしていただいたのです。その中には、帰国中のエルドリッヂ博士もいました。さらに前述の長尾たかし氏もいました。

 

 私としてもアウェイでしたが、仲間に囲まれたので、大きな力をもらって受け入れ態勢を整えました。

 

 そうこうしている時にステージ裏にSPが急に増えたので、高市大臣がお見えになったのがわかったので、楽屋に挨拶に行くと満面の笑みを浮かべて歓迎していただきました。そこでいくつか打ち合わせをして部屋を後にしました。

 

 高市大臣付きのSPも顔見知りとなり、とても円滑に事が運べます。

 

 徳山大会委員長の挨拶の後に門田隆将氏の講演が始まりました。

 

 本人曰く、「できるだけ岸田総理の批判は避けた」と言われていましたが、「ちゃんとしていたよ」と突っ込みました。なぜなら、今の岸田政権のすることなすこと日本を弱体化するための政策でしかないからです。

 

 そう言うのはわかっているので、会場の反応を気にしていましたが、1400名を超える聴衆は受けに受けまくっていました。

 

 余談ですが、今回乗ったタクシーの中で運転手さんに岸田さんの評判を聞いたところ、3人が3人とも不評でした。地元でも人気が落ちているから、いろんな妨害をしてきたのでしょうね。その妨害についてはここで書くと語弊があるので、有料メルマガ内で書きます。

 

 高市さんもしっかりと笑いを取り、岸田内閣の閣僚の一人として岸田総理を立てながら、きちんと自分の訴えを理路整然と語っておられました。本当に頭の良いチャーミングな人です。

 

 会場に何人かの友人が来てくれていたのですが、感想を聞くと生高市を聴いて大ファンになったそうです。

 

 あのエルドリッヂ博士も「高市事務所で高市さんのために働きたい」と言ってくるほどです。奥さんのために持ってきた明太子が効いたみたいです。

 

 今回はゆっくりと時間がなかったので、すぐに帰京されましたが、それでもこんなに多くの人たちが集まってくれはったと大喜びで帰られました。

 

 私は楽屋で議員さんたちからの挨拶と写真撮影をしていたために、会場に来ていただいたほとんどの方に会えずじまいでしたが、門田隆将氏とともに会場を後にしました。

 

 するとすぐそばに原爆ドームが見え、初めてこの会場が平和記念公園内にある施設なんだと気づきました。

 

 広島に来たのはもう何年振りでしょう。30年以上なるでしょう。その平和記念公園に来ている人のほとんどは外国人ばかり、これも円安の影響でしょうか、ホテルの朝食も7割が外国人でした。

 

 門田さんと二人で原爆ドームに向かい、写真を撮り合いました。おじさん二人が写真を撮り合っている姿は外国人から見れば滑稽に映ったのかもしれません(笑)。

 

 しばらくホテルで休んでから、慰労会場に向かい、そこから長い夜が始まるのでした。