明治政府は旧暦の1872(明治5)年12月3日を、新暦による1873(明治6)年1月1日に改めます。
新暦採用によって、1日を24時間とし、のちには日曜日を休日とするなど、長い間の行事や慣習が改められることになりました。
また同じ頃祝祭日が設けられ、『日本書紀』が伝える神武天皇即位の日を新暦に換算して紀元節(2月11日:現在の建国記念の日)、明治天皇の誕生日である11月3日を天長節(現在の文化の日)として祝日としました。
なぜ明治政府は、旧暦を新暦に改め、さらに天皇と深く関係する日を祝日と定める決定を行ったのでしょうか❓
ある国公立大学で出題された入試問題から、歴史を深めていきたいと思います😊
旧暦は太陰太陽暦といい、月(太陰)の満ち欠けの12倍で1年を区分しながら、1太陽年に約11日不足することによる季節とのずれを、19年間に7回の閏(うるう)月を挿入することで調整しています。
つまり、ある年の月は「1月→2月→3月→4月→閏4月→5月…」となり、この年は13か月あるということになるのです😲
この点をよく覚えておいてください。
新暦とは太陽暦のことで、1年を365日とし、4年ごとに1閏日を設定しています。
日本では江戸時代後期、蘭学の勃興により太陽暦への関心が高まり、蘭学者の間では太陽暦の新年を「オランダ正月」として祝う催しがありました。
江戸幕府を倒し、近代国家として新しい政権であることを表明した明治政府の誕生によって、人々はしだいに西洋文明を進歩の頂点にあるもの、日本が追いつき追い越すべき目標として意識するようになっていきます。
明治政府は強制的に開化を進めようとするのですが、太陽暦の採用も重要な開化政策の1つでした。
日本史の教科書には、太陽暦の採用によって長い間の行事や慣習が改められたと記載されていますが、江戸時代に行われていた長い伝統を持つ行事が、太陽暦の採用で一新されるわけはありません。
西洋の風俗や習慣が広まったのは、主として帝都とされた東京や開港場の横浜などであり、農村部にはあまり広まっておらず、農村部では江戸時代同様、旧暦による伝統的な生活習慣が続いていたのです。
現代ではそれほど感じないかも知れませんが、当時は都会と地方農村には大きな隔たりがあったわけです😅
欧米列強を模範とした明治政府によって、欧米の慣習を取り入れることは自然の流れであったことは言うまでもありません。
こうした中、明治政府内で欧米と同じ太陽暦を採用すべしとの意見が現れたのは、何ら不思議なことではなかったと思います。
しかし❢❢
じつは太陽暦採用には、明治政府が抱えた大きな問題を少しでも解決しようとする切実な事情が見え隠れしていたのです😲
さきほどの説明で、旧暦である太陰太陽暦は、19年間に7回の閏月を挿入する必要があると述べました。
太陰太陽暦では、1873(明治6)年に閏6月がありました。
つまり1873(明治6)年は、13か月あるということになります。
しかし太陽暦では閏月がなく、役人(いわゆる公務員)に支払う給与を1か月分支払わなくて済むということになるのです❢
太陽暦を採用すれば、財政的に困窮していた明治政府の国家財政を救済することができる❢❢という極めて現実的な立場から、旧肥前藩(現在の佐賀県・長崎県)出身の大隈重信を中心に太陽暦(新暦)への改暦が断行されることとなります。
大隈重信はのちに東京専門学校(のちの早稲田大学)を設立したことで知られますが、1873(明治6)年に大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し、1881(明治14)年まで大隈財政と呼ばれる財政政策を展開しています。
つまり、大隈重信は財政のエキスパートとして当時の国家財政の状況を熟知しており、窮地に追い込まれている国家財政を少しでも好転させる必要から、太陽暦の採用を訴えたということになるわけです。
歴史は実に深いですね😓
では、天皇と深く関係する日を祝日に設定した意図とは…❓❓
この続きは次回にしたいと思います。
みなさんも是非、考えてみて下さい😊