みなさんは、日比谷公園を知っていますか❓
東京都千代田区にある近代の洋式公園で、江戸時代末期は薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)の上屋敷(かみやしき:大名自身が居住する邸宅)が置かれていたことでも知られています。
この日比谷公園は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の内容に不満を持った民衆運動の地となっています。
この民衆運動は、日比谷焼打ち事件と呼ばれます。
今回は、この日比谷焼打ち事件についての歴史を深めてみたいと思います😊
ここでかなり古いですが、「海野福寿著 日本の歴史⑱『日清・日露戦争』1992年 集英社」を参考にしながら考えてみることにします。
ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年9月5日、東京日比谷公園は3万人ともいわれる群衆であふれました。
彼らの主張は、賠償金30億円、ロシア勢力の東アジアからの完全撤退などの要求でした。
ポーツマス条約では、よく知られているようにロシアから賠償金がまったく取れませんでした。
日本史の教科書などには、賠償金を獲得できなかったことに不満を爆発させ、講和条約反対国民大会に集まった民衆が暴徒化した、と書かれてあるのですが、なぜ民衆は賠償金にこだわったのでしょうか❓
それには日露戦争中の国民の生活が深く関わっていると考えられます。
日露戦争は働きざかりの若者の労働力を奪ったばかりでなく、膨大な戦費が民衆の肩に、背負いきれない重税を課していました。
酒税は大幅に増税され、さらには新たに営業税・砂糖消費税・毛織物消費税・通行税・相続税・鉱業税などが設けられ、庶民の生活を著しく圧迫することになりました。
『平民新聞』(社会主義の結社である平民社から発行された新聞)は一面に「鳴呼(ああ)増税!」と題した論説を掲げ、戦争のための大増税を厳しく批判しました。
本来、国民の平和と幸福と進歩を保障するためにつくられたはずの国家の存在の必要は認められない、との主張を展開しました。
戦争に労働力を奪われたばかりか、増税によって生活の崩壊にまで追い込まれた国民感情は、「賠償金なし」の条件をのんだ明治政府を許すことができなかったのです😡
地理的に近いロシアという国は江戸後期以来日本近海に姿を見せ、明治時代に入ってからも日本にとって脅威となる存在であり続けました。
ところで日本は朝鮮半島の存在を大変に重視していました。
なぜなら朝鮮半島が第3国の手に渡ったら、次に侵略の対象となるのが日本であると考えていたためです。
この第3国とは地理的に日本と近いロシアが想定されており、ロシアが満州(現在の中国東北部)にまでその勢力を伸ばしたとき、満州と陸続きである朝鮮半島がロシアの手中に入る可能性が危惧されました。
そのような中でイギリスと同盟してロシアから実力で朝鮮半島での権益を守ることを決意した日本は、1902(明治35)年日英同盟協約を結び、ロシアと戦火を交えます。
この戦争にかろうじて勝利した日本は、ロシアに対して賠償金・領土割譲の要求を行ったのですが、ロシアは日本の要求を拒否します。
最終的にはロシアが樺太(からふと:サハリン)南部の割譲を認めて、妥協が成立します。
さらに日本はロシアに対して、朝鮮半島に対する日本の指導・保護・監理権の承認、鉄道権益(のちの南満州鉄道)の日本への譲渡などを認めさせます。
しかしロシアの脅威を東アジアから完全に排除できたわけではなく、日本国民のロシアに対する恐怖は残り続けたのです。
戦争継続によって生活を奪われた日本国民は、賠償金が取れない、ロシアの脅威がいまだ東アジアから排除できないまま、講和条約に調印した明治政府を許すことができなかったわけです。
日本は兵器・弾薬・兵士などの補給面で軍事的限界を迎えていたばかりか、経済面でも限界に達していました。
日本はこうした中、大国ロシアとギリギリの外交交渉を展開したのですが、この状況を知る由もない日本国民は感情を爆発させたのです。
日本政府の思惑と国民感情とのズレが日比谷焼打ち事件を引き起こし、政府はこの暴動に対して軍隊を動員して鎮圧にあたる一方、戒厳令が発令されました。
つまり明治政府は、民衆の反政府運動を軍隊の力でねじ伏せたのです。
自らも被害者であると考える民衆たちによる政府への涙の訴えを上から押さえつけました。
日比谷焼打ち事件とは、単に賠償金が取れないことに反発した事件だったのではなく、自らも苦みもだえた民衆が政府に不満をぶつけた暴動だったのです。
教科書にはほんのわずかな説明しかなされていない歴史的事項ですが、深めてみると民衆の息遣いが見えてきます。
歴史を深めてみることは、大切なことであると強く思います。