1467(応仁元)年に始まった応仁・文明の乱は、「戦国時代の幕開け」となる大事件です。

 

 

 

 

守護大名は東軍と西軍にわかれて戦い、主戦場となった京都は戦火に焼かれてしまいました😨

 

 

 

 

応仁・文明の乱1477(文明9)年、戦いに疲弊した両軍の間に和議が結ばれ終戦を迎えます。

 

 

 

 

南北朝時代を経て強大なる権力を保有した守護大名は、室町幕府を支えるべく在京して幕府政治に参加する体制がとられていました。

 

 

 

 

しかし応仁・文明の乱は、「守護在京の原則」と呼ばれた体制を崩壊させ、守護大名自らが支配する領国へと戻っていく大きな契機となったのです。

 

 

 

 

以前の「日本史の考え方」でも扱ったように、守護大名のすべてが戦国大名になったわけではありませんでしたが、守護大名から戦国大名となった者も多くいましたし、守護代国人と呼ばれた階層から戦国大名に成長した者もいました。

 

 

 

 

そして戦国大名となった者は、積極的に応仁・文明の乱の戦火を逃れ、京都から地方へと下った公家を招きいれています。

 

 

 

 

公家(くげ:上級貴族のこと)は当時を代表する文化人であるとともに、多くは荘園領主でもありました。

 

 

 

 

応仁・文明の乱京都を荒廃させただけではなく、荘園制をも解体させたことで、公家は荘園からの収入を見込めない状況へと追い込まれます😨

 

 

 

 

荘園であった地も戦国大名が主導権を握るようになり、荘園からの収入を戦国大名自らの収入とすることによって、領国を経営していくための経済力としたのです。

 

 

 

 

京都が荒廃した上に、荘園からの収入が断たれて困窮した公家は、卓越した軍事力・経済力を持った各地の戦国大名のもとに身を寄せることになります。

 

 

 

 

公家たちは、蹴鞠(けまり)や和歌、有職故実(ゆうそくこじつ:貴族の儀礼などの先例のこと)などを教えることで、その授業料によって生計を立てたのです😓

 

 

 

 

公家は当時の官僚の世界では非常に高い身分で、当時を代表する知識人・文化人ではありましたが、戦国大名が彼らを招きいれるのには理由がありました。

 

 

 

 

端的にいえば、中央の文化に強いあこがれを持っていたためですが、まだ他にも重大な理由があると考えられます。

 

 

 

 

全員ではありませんが、それなりの数の守護大名が戦国大名へと成長しています。

 

 

 

 

戦国大名が守護大名であった時代の経験が、重要な意味を持っているのです❢❢

 

 

 

 

先にも述べた通り、守護大名は「守護在京の原則」によって普段は京都に居住しており、重要な案件については合議が開かれていました。

 

 

 

 

また京都にある守護大名の邸宅では、貴族を招いての和歌会などが開催されており、機知に富んだ和歌を詠むためにも、参加者として深い教養が必要とされていました。

 

 

 

 

つまり、守護大名には合議・和歌会に参加する上でさまざまな能力が求められたわけです。

 

 

 

 

合議に参加して発言するためには、状況の分析力・洞察力などが必要とされたでしょうし、和歌会においては高度な文化的水準が求められたことは間違いないでしょうが、このような場は、何よりも最新かつ貴重な情報収集の場であったということを理解することが重要です。

 

 

 

 

室町幕府は京都に所在していましたので、貴族と武士は同じ場所に居住していました。

 

 

 

 

日本の中心たる京都に居住した守護大名は、他の守護大名との合議の場、和歌会などの貴族との交流の場を通して得られる情報は、室町という時代を生きていくためには必要不可欠でした。

 

 

 

 

ですから戦国大名化した元守護大名らは、積極的に京都の公家に代表される文化人を招きいれることで、貴重な中央の情報を得ようと努めたのです。

 

 

 

 

守護大名として権勢を誇った戦国大名大内氏の城下町山口には、多くの文化人や公家が集まり、儒学や和歌などの古典の講義が行われ、書籍の出版も行われています。

 

 

 

 

室町時代大内氏の領内で刊行された書籍は、大内版(おおうちばん)と呼ばれます。

 

 

 

 

このようなことが行われたことは、文化的水準の高さを物語っています。

 

 

 

 

水墨画で有名な雪舟、連歌師として名高い宗祇(そうぎ)なども山口を訪れています。

 

 

 

 

大内氏に限らず、多くの戦国大名は積極的に中央の文化を取り入れることで、城下町を政治・経済のみならず文化的拠点ともしていきました。

 

 

 

 

武士という階級にある人間があこがれた貴族の文化を城下町の主である戦国大名が独占し、これらを城下町に集住させた家臣に分け与えるという形をとることで家臣団を統制していったのです。

 

 

 

 

応仁・文明の乱を契機として地方に下った戦国大名は、荒廃したとはいえ天皇が所在する京都が日本の中心であるとの認識を強く持っていました。

 

 

 

 

ですから京都から下ってきた経済的に困窮した公家などの文化人を積極的に招き入れ、情報収集を行ったのです。

 

 

 

 

そして戦国大名を含め、多くの武士のあこがれであった文化人からの教養を独占することで戦国大名自らの権威を高め、教養を家臣に与えることで家臣団をまとめることに役立てたと言えます。

 

 

 

 

 

中央は情報が多く、地方は情報が少ないという状況は通信技術が発達した現代においては解消されつつありますが、いまだに根強く残っているのではないでしょうか。

 

 

 

 

いつの時代でも、「情報」という存在は極めて高い価値を持っているのです😊

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