みなさんは、「大政奉還(たいせいほうかん)」という歴史的大事件を知っていますか😊❓
大政奉還とは、1867(慶応3)年10月14日、江戸幕府第15代将軍である徳川慶喜(よしのぶ)が政権の返上を朝廷に申し出て、翌日勅許(ちょっきょ:天皇のお許し)された政治事件です。
上に掲げた絵は、大政奉還の上表が朝廷に提出された前日の1867(慶応3)年10月13日に、徳川慶喜が二条城🏯に諸藩の重臣を集めて、大政奉還について諮問(しもん:意見を求めること)している様子を描いています。
以前、ある大学の入試問題で、次のような出題がありました
「なぜ徳川慶喜は大政奉還をおこなったのか」
実にストレートな問いです😅
ここでは、【日本史リブレット48『近世の三大改革』藤田覚 山川出版社 2002年】を参考にしながら歴史を深めていきたいと思います。
そもそも「大政奉還」の「大政」とは、一体どのようなものなのでしょうか❓
「大政」とは、日本の国土と人民を統治する権限のことです。
江戸時代の幕府と朝廷、将軍と天皇の政治的関係は大政委任という考え方で説明されています。
つまり、大政の権限は天皇にあり、それを将軍に委任しているという考え方で、このような考え方は「大政委任論」と呼ばれています。
天皇が日本国の唯一の君主であり、その統治権を一時的に臣下である将軍に預けているという考え方です。
将軍とは征夷大将軍のことで、元々は蝦夷(えみし)と呼ばれた人々を討伐するために、天皇から節刀(せっとう:天皇の最高軍事指揮権を象徴する刀)を与えられ臨時に派遣された官職でした。
律令における「令」の規定にない官職であることから、征夷大将軍は令外官(りょうげのかん)でした。
特に鎌倉時代以後、武家政権の首長の職名となった征夷大将軍という官職は、天皇から与えられるものです。
こういう観点から判断すると、卓越した軍事力・経済力・経営力を持って武家をまとめ上げた支配者の権力は、天皇によって征夷大将軍という官職を与えられることで初めて「公的に」認められたのであり、将軍はどうあがいても天皇には勝てないということになると思われます。
天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、全大名に対する指揮権の正統性を得るために征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に幕府を開きます。
そして徳川家康は、天皇・朝廷がみずから権力をふるったり、他の大名と結びついて江戸幕府に抵抗することがないよう、天皇や公家の生活・行動を規制する体制を採用するのです。
1613(慶長18)年に「公家衆法度(くげしゅうはっと)」を制定して、公家の義務として、家業と宮中を昼夜警備する禁裏小番(きんりこばん)とを命じています。
例えば、白川家・吉田家は神祇道、土御門(つちみかど)家は陰陽(おんみょう)道、飛鳥井家は蹴鞠(けまり)を家業としています。
さらに1615(元和元)年には「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定することで、朝廷および公家の動きを抑えようとするのです。
卓越した軍事力を背景にして全国を統治下に治めた徳川家康は、天皇という古代以来の日本の統治者の権力を抑制する形で、日本を支配していきました。
朝廷が持つ力を封じ込めることで運営された徳川の世も200年近く経つと、天皇と将軍の関係性を実に分かりやすい形で説明する思想家が出現します😊
国学者の本居宣長(もとおり のりなが)です。
本居宣長は著書『玉くしげ』の中で、「日本全国を統治する権限は、天皇から委任された将軍家が行い、将軍はその統治権限を諸大名に分与することで各地を統治させている。」と述べています。
この考え方によれば、諸藩を統治する藩主が持つ権力の正統性は将軍から与えられたものであり、将軍が諸藩を支配する権力の正統性は天皇から与えられたものである。
つまり、日本で最も権力・権威を持っている存在が天皇であり、天皇が本来持っている日本の統治権は、天皇に認められた存在に委任されている(大政委任)ということになるのです。
このような考え方は、幕府の中枢にいた人々によっても強く認識されていました。
例えば、寛政の改革を推進した、老中の松平定信です。
松平定信が当時の幼い将軍に語った「大政委任」とは、どのような内容だったのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います😊