前回の続きになります。
まず、「守護」という存在についての理解を深めてみたいと思います😊
守護は守護人(しゅごにん)とも呼ばれます。
源頼朝は1180(治承4)年の挙兵直後から、下野国(しもつけのくに:栃木県)の小山(おやま)氏、相模国(さがみのくに:神奈川県)の三浦氏などを守護として、軍事指揮・国内治安維持にあたらせています。
1184(元暦元)年以降、源頼朝の送った平氏追討軍が平氏を追って西へ西へと軍を進めるにあたり、守護は畿内・西国にも順次設置されていきますが、守護の名称について、朝廷・荘園領主向けには「総追捕使(そうついぶし)」の名称が用いられました。
1185(文治元)年、源頼朝の支配権の強大化を恐れた後白河法皇は、源頼朝の弟の源義経に源頼朝の追討を命じます😲
これに対して源頼朝は軍勢を京都に送って後白河法皇に迫り、逆に源義経を追討する命令を後白河法皇から獲得することに成功します。
そして源頼朝は、源義経追討遂行のためと称して、地頭(じとう)とともに守護を全国に設置できる権限を獲得するのです。
この権限は1189(文治5)年、源義経をかくまった罪で奥州の支配者であった藤原泰衡(やすひら)を追討する際に、最大限発揮されることになりました。
戦時下における守護の権限は、国内武士を統率して謀反(むほん)人らを追討することです。
藤原泰衡は謀叛(むほん)人として、源頼朝率いる守護勢力によって滅亡させられたのです。
守護の権限は他にも、戦時に必要とされる兵粮米(ひょうろうまい:戦争時における軍隊の食糧となる米)を集めたり、治安維持にあたるなど広範なものでした。
こうした守護の権限はのちに、大犯三カ条(だいぼんさんかじょう)といわれる、御家人を統率して天皇・上皇の御所を警備させる京都大番役(きょうとおおばんやく)の催促、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕の3つが基本職権とされるようになります。
鎌倉時代を通して守護を世襲し続けた例は、下野国小山氏をはじめ8氏しかなく、改替が激しい状況でした。
鎌倉時代末期には北条氏一門が30国ほどを独占することになるのですが、後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、北条氏一門の守護の職は没収されることになります。
建武政権では、守護と国司が併置されます。
守護・国司は各国に1名ずつが配属されましたが、職務については犯人逮捕や所領・財産の没収手続きまでが守護が、その所領・財産の処分は国司が行ったことからわかる通り、職務内容はそれぞれ分担がなされていました。
鎌倉幕府と後醍醐天皇率いる建武政権を崩壊に追いやった勢力は武士であったわけですが、南北朝時代において北朝・南朝それぞれの勢力は、これら軍事力を保有する武士を味方につける必要がありました。
南北朝時代以降、各地方に土着した武士は国人(こくじん)と呼ばれましたが、自らの皇位の正統性を主張し合う北朝・南朝は、この国人層を味方につけ争いを優利に展開する必要から、さまざまな政策を展開するのです。
北朝側である室町幕府は、全国の武士をまとめあげるために各国に守護を派遣します。
室町幕府が派遣した守護だからといって、国人層がすぐに言うことを聞くわけでは決してありませんでした。
守護には軍事力はもちろん、国人との交渉力など、国を経営していく力が求められました。
室町幕府は守護の重要性を強く認識しながらも、守護による職権の乱用を恐れて、守護の力を抑制しようとしていました。
しかし南北朝時代という戦争の時代にあって、守護に強大な権力を与えて各国を支配させなければ、北朝が戦争に敗れてしまう可能性が高まることになります😨
歴史をみれば北朝側が勝利したことが容易にわかりますが、当時は北朝・南朝のどちらが勝利するかなど誰もわかっていないはずです。
ですから、室町幕府は北朝を勝利に導くためにも、守護権力の強大化には極めて慎重な態度ではあったものの、地方の国人層を組織する必要性から、やむを得ず守護の権限を拡大したのです。
南北朝の動乱を経て、室町時代の守護はどのような権限を付与されたのでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います😊