前回の続きになります。
江戸時代において土地を借金のために質に入れ、そのまま土地を失うことになった人々が「村を出ていく」という選択をした場合、彼らはどこへ行くのか❓
ということでした。
私はこの質問を授業で生徒にしています😊
様々な解答が出てくるのですが😅、自分だったらどうするのか❓を考えてみると解答に近づいていくのではないかと思います。
そうです❢
農村を離れた百姓たちは、江戸や近隣の都市部に流出して日雇いの仕事を求め、その仕事に従事することでわずかばかりの現金💸を手に入れようとしたのです。
人々は仕事を求めて、多くの人口が集まる都市部を目指したのです。
特に大都市であった江戸には多くの百姓らが流入しますが、幕府は彼らを江戸から農村へ戻そうとする政策を打ち出します。
百姓は農村で米を作り、その米を年貢として支配者に納める唯一の納税者だからです。
江戸から排除された百姓らはもとの農村に戻ることはせず、江戸周辺の関東に住み着くことになり、その結果関東の治安が乱れていくことになるのです。
話が少しそれましたが、この「村を出ていく」という選択をした人々こそ、百姓の家に生まれた次男・三男や女子だったはずです。
百姓の長男は将来の戸主として、村の土地を守り、農業を子孫に伝える役割を担っていたと考えられるからです。
次男以下は、常に自分たちの本来の家業から独立する可能性を秘めていたのです。
江戸時代が終焉(しゅうえん)を迎え、新しい明治の世になっても社会構造の根本は急激な速さで変化したわけではありません。
やはり長男と次男以下では、大きな違いがありました。
日本の産業革命が進展する中で、資本主義の発達が促進され、工場制工業がつぎつぎに勃興するのに伴い、賃金労働者の数が急増することになります。
産業革命において機械制生産が急増していくのですが、全てが機械によって自動生産されていたわけでは決してありません。
機械制生産に従事する多くの労働者の存在が必要不可欠でした。
そしてこの労働者となったのが、農家の次男・三男・女子で、苦しい家計を助けるためのいわゆる「出稼ぎ型」の労働者でした。
しかも、産業革命の中心となった繊維産業部門の労働者は、大部分が女子であり、重工業や鉱山部門では男子労働者が多かったのですが、全体として女子労働者の比重が大きかったのです。
教科書の教科書とも称される『詳説日本史研究』(山川出版社)には、次のような記載があります。
1900(明治33)年の統計によると、民間の工場(10人以上使用)労働者数は38万8296人で、そのうち繊維産業の労働者が23万7132人(製糸業11万8804人/紡績業6万2856人)と60%以上を占め、その約88%が女子であった。
また、当時の労働時間と賃金についても次のように記載されています。
劣悪な労働条件を最もよく表しているのが、労働時間の長さと賃金の低さであった。
重工業の男子労働者についてみれば、例えば東京砲兵工廠(ほうへいこうしょう:武器や弾薬をはじめとする軍需品を製造する施設)や石川島造船所では、1897(明治30)年ころ、1日10~11時間労働で、日給30~35銭(現在の3000円くらい)程度であったが、実際には残業して13~16時間働き、50~60銭くらいの日給を得ることが多かった。休日は普通は月2回。
ちなみに当時の米価は1升(約1.5㎏)で14~15銭くらいで、大学を卒業した役人(公務員)の初任給は月額40~50円であった。
上記に示されているのは男性の賃金に関するものです。
当時多くの女性たちが従事していた繊維産業の勤務形態ならびに賃金はどのようなものだったのでしょうか❓
日本の産業革命を支えた功労者とも言える女性たちや、当時数多く存在した年少労働者たちの置かれた状況とは一体…❓
この続きは次回にしたいと思います。
みなさんも是非、調べてみて下さい。