みなさんは、日本で最初の労働者保護法の名称を知っていますか❓
正解は、「工場法」という法律になります。
この工場法は、1947(昭和22)年に労働基準法が制定されるのに伴い廃止されました。
しかし工場法は、「労働者保護法とはとても言い切れないほど、劣悪な内容」になっていました😓
しかも工場法は1911(明治44)年に制定されたにもかかわらず、施行されたのは5年後の1916(大正5)年だったのです😲❢❢
なぜなのでしょうか❓
これには、「当時の明治国家が抱えた現実」というものが深く影響していたのです。
今回は、大学入試問題としてもよく取り上げられる「工場法」についての歴史を深めてみたいと思います😊
工場法は労働者保護の法律ですから、まずは当時の労働者の実態について考えてみます。
高等学校日本史の教科書などを参照すると、次のようにまとめられています。
幕末期以来、貿易において日本ではおおむね輸入超過(輸入総額が輸出総額よりも多い状態)が続くのですが、大蔵卿(現在の財務大臣)松方正義(まつかた まさよし)のもとでの緊縮財政とこれに基づく不況の影響による輸入の減少によって、1882(明治15)年より輸出超過(輸出総額が輸入総額よりも多い状態)となります。
こうした貿易の発展による刺激などにより、産業界は活況を呈し、1886(明治19)年~1889(明治22)年には鉄道🚋と紡績部門を中心に株式会社設立のブームが起こることになります。
これが日本最初の企業勃興(ぼっこう)であり、日本における産業革命の始まりでした。
日本の産業革命は、日清戦争・日露戦争を契機に進展し、20世紀初頭に達成され、資本主義社会の確立をみることになりました。
日本の産業革命の中心は繊維産業でしたが、ここで改めて考えておかなければならないことがあります。
産業革命とは資本主義制度確立の画期であり、資本主義社会には大きくわけて2種類の相反する立場の人々が存在する、ということです。
それが、「資本を所有する資本家」と「自己の労働力しか売るものを持たない労働者」の2種類です。
そして現代にも通ずるところではありますが、往々にして「資本を所有する資本家」(=会社の経営者側)の方が「立場が上」である、という事実です。
明治時代の前の時代は、江戸時代と呼ばれた時代であったことは言うまでもありません。
江戸時代の社会には身分制度が存在しており、武士を中心としたわずかな支配階級にある人々が、多くの被支配階級にある人々を支配する構造でできあがっていたのです。
被支配階級には、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、大工など独自の技術を有した手工業者である職人、そして商業を営む商人を中心とする町人などが含まれていましたが、この中で圧倒的多数であったのが百姓でした。
そして百姓・町人の家では戸主(こしゅ:家の統率者・支配者のこと)の権限が強く、家督(かとく)や財産・家業は長男を通して子孫に相続されることが基本とされ、戸主以外の家族は軽んじられることがあったとされているのです😲
では百姓の家に生まれた次男・三男や女子は、例えば飢饉などが起きて村における生活が大きな打撃を受けた際、どのような行動に出る可能性を秘めていたのでしょうか❓
江戸時代という時代は、260年間以上も続いたとても長い時代でした。
ですから一口に江戸時代といっても、江戸時代初期と末期とでは全く異なった社会に変貌を遂げています。
江戸時代も中期以降になると、村々では手持ちの資金を困窮した百姓に高利で貸し、その担保として預かった田畑を集めて地主に成長する者が現れる反面、土地を失って小作人に転落する者が出るなど、社会状況に大きな変化が現れます。
土地を失った人々は地主に高額の小作料を払ってまでも村に残るか、あるいは村を出ていくかの選択をしなければなりませんでした。
「村を出ていく」という選択をした場合、彼らはどこへ行くのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います。
みなさんも是非、考えてみて下さい😊