みなさんは、「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という言葉を聞いたことがありますか❓

 

 

 

 

喧嘩両成敗とは、喧嘩(=武力を用いた争いのこと)の当事者に対する伝統的な処罰方法です。

 

 

 

 

喧嘩をした者を、どちらが正しいか、どちらに非があるかを問うことなく、双方とも同罪として処罰するのです。

 

 

 

 

 

古来、日本では、紛争の原因について程度の差はあっても、いずれにも必ず理由があり、そして必ずいずれにも非があるという強い社会観念あり、喧嘩による双方の報復(ほうふく:仕返しすること)感情を断つ方法として、しばしば両成敗の処置が採用されてきました。

 

 

 

 

 

 

 

下剋上の時代」という乱世の中を生きた戦国大名は、家臣団統制や領国支配のための政策を次々と打ち出していきました。

 

 

 

 

戦国大名の中には、領国支配の基本法である分国法と呼ばれる法律を制定する者もありました。

 

 

 

 

戦国大名の今川氏武田氏長宗我部(ちょうそかべ)氏らは、領国支配の安定をはかるべく分国法喧嘩両成敗を定めました。

 

 

 

 

 

甲斐(かい:現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄が定めた分国法である「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」には、次のような条文が載せられています。

 

 

 

 

喧嘩(けんか)の事、是非(ぜひ)に及ばず成敗(せいばい)を加ふべし。但(ただ)し取り懸(か)かるといへども、堪忍の輩(ともがら)においては罪科に処すべからず。」

 

 

 

 

現代語訳

喧嘩については、理由を問わず成敗を加える。ただし仕掛けられても耐えている者については、罪科に処さない。」

 

 

 

 

 

 

また、四国の戦国大名である長宗我部元親(もとちか)らが作成した『長宗我部氏掟書』には、次の条文が載せられています。

 

 

 

 

喧嘩口論堅(かた)く停止(ちょうじ)の事。善悪手初(てはじめ)謹みて堪忍すべし。此旨に背き互いに勝負に及ぶものは理非に寄らず双方成敗すべし。若(も)し一方手出し仕るにおいては、如何様の理(ことわり)たりと雖(いえど)も其者罪科に行はるべき事。」

 

 

 

 

現代語訳

喧嘩口論をかたく禁止する。善悪を論ずるより前に自重して我慢せよ。この趣旨にそむいてお互いに勝負に及べば、理由によらず双方を処罰する。もし、一方が手出しした場合には、どのような理由があろうといえどもその者を処罰する。」

 

 

 

 

 

 

しかし、改めて考えてみたいのですが、なぜ喧嘩両成敗なのでしょうか

 

 

 

 

確かに当時の社会観念(=喧嘩には必ず双方に原因があるという考え方)は理解できますが、喧嘩を仕掛けた一方のみを処罰して、他方は処罰しないという方法もあったはずです。

 

 

 

 

喧嘩に関わった双方を処罰(=死刑)するということは、戦国大名にとって大切な家臣を同時に2人も失うということになるわけですが…。

 

 

 

 

 

戦国時代という時代は、中世社会から近世社会へと時代が動く過渡期にあたります。

 

 

 

 

中世の国家は、社会のすべての諸集団や構成員をまとめきれていたわけではありませんでしたので、紛争解決のためにしばしば「自力救済」という名の私的な武力が行使されてきました。

 

 

 

 

しかし❢❢

 

 

 

 

 

 

自力救済」が戦国大名の領国内で行われたら大変です。

 

 

 

 

家臣同士の私闘を許した戦国大名の統治力が低下するばかりか、周辺の戦国大名につけいる隙(すき)を与えることになり、命とりにつながるからです。

 

 

 

 

戦国大名は領国支配の安定のため、すべての紛争を大名による裁判に委ねさせ、領国の平和を実現する必要性に迫られていたのです。

 

 

 

 

このような考え方は、豊臣秀吉総無事令(そうぶじれい)という政策に受け継がれていくことになります。

 

 

 

 

総無事令とは、豊臣秀吉が天皇の権威と圧倒的な武力を背景に、戦国大名間の私闘の停止と豊臣秀吉による領土紛争の裁定を決めた命令のことです。

 

 

 

 

戦国大名にとって「喧嘩両成敗」は、重要な政策の1つでした。

 

 

 

 

喧嘩に関わった双方を処罰することで報復感情を断つと同時に、他の家臣たちへの「見せしめ」にもつながりました。

 

 

 

 

やはり喧嘩に関わった双方への厳罰がどうしても必要だったのです。

 

 

 

 

自力救済」に対する戦国大名の断固たる姿勢が、領国の平和を実現することにつながったのです。

 

 

 

 

領国を安定させなければ、支配者としての地位を保つことができなかった戦国大名の置かれた過酷な立場が反映された政策だったと言えます。

 

 

 

 

歴史はじつに奥が深いと思います。

 

 

 

 

為政者が行った政策の「なぜ」を考えることで、その当時の時代を知ることができるのではないかと思います。

 

 

 

 

これからも歴史を深めていきたいと考えています😊