今回は「足尾銅山」を取り上げたいと思います。
足尾銅山は、古河財閥の発展の母体となった日本最大の銅山です。
古河財閥は、京都出身の古河市兵衛(ふるかわ いちべい)が創設した鉱山業中心の財閥です。
足尾銅山は、現在の栃木県日光市に所在しています。
足尾銅山は16世紀半ばに発見され、1610(慶長15)年に江戸幕府直営の銅山となりました。
17世紀後半には、江戸時代において海外との貿易の唯一の港であった長崎港から輸出される銅の20%を占めるほど、足尾銅山は繁栄することになります。
しかしその後衰退し、幕末には廃山同様となってしまいました😓
1877(明治10)年、古河市兵衛は志賀直道(しが なおみち:志賀直哉の祖父)と渋沢栄一の協力を得て再開発に着手しています。
1884(明治17)年頃より産銅が急増したことを受けて、古河市兵衛は欧米の鉱山機械を次々と導入して生産増大を図ります。
このころからです。
渡良瀬川(わたらせがわ)に「ある異変」が起こり始めるのです。
銅の精錬過程から出る鉱毒が多量に渡良瀬川に流れ込んだため、大量の魚が死滅する事態が起こるのです。
さらに足尾銅山の開発によって、源流部の木材🌲が乱伐されたことにより洪水が頻発するようになります。
1890(明治23)年の洪水では、流域の村々で作物が立ち枯れるなど田畑を広範にわたって荒廃させることになりました。
このため被害農民が「鉱業停止」要求を掲げて政府に迫るなど、当時大きな社会問題となりました。
この社会問題こそ、足尾銅山鉱毒事件です。
日本の産業革命期に鉱山の操業差し止めを求めるなど、まさに日本の公害問題の原点がここにあります。
被害農民のみならず、栃木県・群馬県両県議会も鉱毒対策を知事に建議し、さらに栃木県選出の衆議院議員である田中正造が議会で鉱毒問題を取り上げ、鉱業停止を要求します。
1897(明治30)年3月、被害民は2度にわたって東京へ押し出します。
政府は鉱毒調査会を設置し、古河側に鉱毒予防工事命令を下しましたが、予防工事は技術的にも不完全だったため被害が続くことになりました。
1900(明治34)年には、陳情のため集団で上京しようとした被害民と警察隊が衝突し、多数の検挙者を出しました。
この事件は、事件の発生した地名から川俣(かわまた)事件と呼ばれています。
議会での請願や質問では効果がないと判断した田中正造は、社会問題化による解決をはかるべく衆議院議員を辞職して、明治天皇に直訴するという手段にうってでます😲
全国の鉱山に鉱毒問題が波及するのを懸念した政府は、第2次鉱毒調査会を設置し、その答申を受ける形で鉱毒問題の治水問題への転換を計画します。
治水とは、辞書などには、洪水などの水害を防ぎ、また水運や農業用水の便のため、河川の改良・保全を行うこと、と説明されています。
政府は鉱毒防止対策として渡良瀬川の洪水調整と鉱毒沈殿のための貯水地を建設することを決定し、建設予定地にあたる谷中(やなか)村村民の反対を押し切って、これを実行していったのです。
田中正造は1904(明治38)年には谷中村に移り住み、政府による谷中村強制買収に最後まで抵抗を続けました。
しかし田中正造らの運動もむなしく谷中村は廃村となり、1913(大正2)年、田中正造は胃癌(いがん)のため71歳でこの世を去ります。
遺骨は、谷中をはじめ鉱毒被害地に分骨埋葬されています。
ここで考えなければならないことがあります。
それは、政府の決定です。
政府が足尾銅山鉱毒問題に対して、「ある決断」さえしていたら、この問題はそれほど困難なく解決していたのではないかと考えられるからです。
次回は、なぜ政府が「ある決断」をせずに、鉱毒問題をここまで大きな問題にしてしまったのかを考えてみたいと思います。
ここには、当時の明治国家が抱えた大きな悩みが深く関係しているのです。
この続きは次回にしたいと思います。
是非、みなさんも考えてみて下さい😊