前回の続きになります😊
アメリカ・イギリスはどのような方法で、蔣介石を支援したのか❓
ということでした。
みなさんは、「援蔣(えんしょう)ルート」という用語を知っていますか❓
これは、蔣介石による抗日戦争を援助するために、連合国が開拓した物資補給路のことです。
日本は日中戦争を「北支(ほくし)事変」ついで「支那(しな)事変」などの「事変」として、宣戦布告しませんでした。
詳しくは以前のブログをお読みいただければと思いますが、宣戦布告しなかったことで、沿岸封鎖が不十分で、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連などが持ち込む重火器やトラック、ガソリン、医薬品などの戦略物資の国民政府への供給を断つことが日本にとって重要な課題となっていました。
ここで少し「ソ連」について触れておきたいと思います。
「ソ連」がどのような経緯で、連合国側についたのかを疑問に思う方がいるかも知れないからです。
第1次世界大戦(1914年~1918年)の最中の1917(大正6)年、ロシアでは約300年間続いたロマノフ王朝と大戦継続に反対する労働者・兵士による革命が勃発(ぼっぱつ)しました。
ロシア革命です。
世界で初めての社会主義国家の誕生を恐れたイギリス・アメリカなどの列強は、革命下にあるロシアに干渉する戦争をしかけ、日本にも共同出兵を促します。
シベリア出兵です。
イギリス・アメリカなどの列強は、シベリア出兵にも関わらず誕生した社会主義国家である「ソ連」と敵対関係にありましたが、「ソ連」はこののち国力を高めていき、1933(昭和8)年、アメリカは「ソ連」を承認し、翌1934(昭和9)年には「ソ連」が国際連盟に加入します。
こうして、国際社会における「ソ連」の役割が増大していったのです。
日本は1936(昭和11)年、「ソ連」を中心とする国際共産主義運動への抵抗を掲げる「日独防共協定」を結びます。
「独」とはドイツのことです。
翌1937(昭和12)年にはイタリアがこれに参加し、「日独伊三国防共協定」が結ばれることになります。
国際連盟を脱退して国際的孤立を深めていた日本・ドイツ・イタリアの3国は、反ソ連の立場で結束したのです。
「防共」とは、共産主義の侵入・拡大を防ぐということです。
具体的には、「ソ連」と敵対することを意味しています。
これに対してソ連は、アメリカ・イギリス・フランス・中国との関係を深め、第2次世界大戦時には連合国の一角として戦争に参戦していきます。
ソ連は日本と敵対関係にある国民政府を積極的に支援し、様々に存在した補給路の重要な1か所を形成していたのです。
仏印(ふついん)ルート、ビルマルート、ソ連と重慶を結ぶ西北ルートなどが開かれていましたが、日本軍の攻撃で1つのルートが遮断されると、また新たなルートが開かれていきました。
「仏印」というのは、「フランス領インドシナ」のことです。
現在のベトナム・ラオス・カンボジアのことをさし、この一帯はフランスの支配下にありました。
ビルマはイギリスの支配下から独立を果たした国で、現在のミャンマーです。
ビルマ建国の父と呼ばれたのがアウンサンで、アウンサンの長女がアウンサンスーチーなのです。
この様々な方面から築かれた援蔣ルートによって、日中戦争は長期化していきました。
また別の機会に詳しく取り上げたいと思いますが、日本軍は1940(昭和15)年9月に北部仏印進駐と呼ばれる軍事行動をとっています。
1940(昭和15)年6月にフランスがドイツに降伏したことを受けて、ドイツと提携関係にあった日本はフランス領インドシナに進駐していきます。
なぜ日本は仏印に進駐したのか❓
それは、日中戦争打開のために援蔣ルートを遮断する必要性に迫られていたからです。
どれだけ日本軍が国民政府を攻撃しても、援蔣ルートを断たなければ蔣介石の軍事力は弱体化していかなかったからです。
しかし、日中戦争長期化の理由は、実は日本政府の対中国政策のあり方にもありました。
これはどういうことでしょうか❓
この続きは次回にしたいと思います😊